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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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分岐点

遅めのお盆休みをいただき昨日まで東京方面に滞在していた私は幾つかの所用を済ませたほか、明走会の月例会と東京夢舞いマラソンの実行委員会にも出席しました。
そのうち月例会では既に報告した通り、トレランの練習中に山で滑落事故に遭って亡くなったMさんの冥福を祈るため、集まった駆けっこ仲間が全員で黙祷を捧げました。

また夢舞いの会議では、Mさんが提案していた企画の幾つかを進めることが決まりました。
その中には東日本大震災の被災地に向け、走る仲間から元気を届けようという「パワーメッセージ」ボードの設置や、ランナーの多くが自宅に着ないまま持っているマラソン大会の記念Tシャツを贈る「Tシャツ宅急便」、使い捨ての給水用コップを減らすための「マイPetボトル」の推奨があります。
Mさんはまた、歩道を走る夢舞いならではといえる沿道地域の人たちとの触れ合いを深めるため、積極的にあいさつを交わそうという「ハロープロジェクト」も提案されていました。

建築家であって、活力みなぎる女性ランナーらしいクリエイティブで、優しさのあふれる企画ばかりで、仕事のほかに行うボランティアの活動でさえ、これほど真剣に力を注がれたMさんが、いかにまだまだ多くのものを生み出し、自分の周囲をはじめ多くの人たちを力づけてくれたはずだったかということが分かります。

そんなMさんが夢舞いの企画として強く推してくれていたのが、昨年の大会で私が撮影した写真の展示。
名付けて「夢追い○辰組」(辰は○の中に)。自分が与えてもらった元気を、ほかの人にも伝えたいという私の気持ちを、それほど深く付き合っていたわけでもないのに、一番よく分かってくれていた仲間がMさんだったというわけです。

※※※

Mさんの事故が、どんなふうに起きたかについては既に6回にわたる記事で書き尽くしたつもりでした。
トレランに同行した仲間のうち一部の方とは面会できたものの全員から話を聞かせてもらうことはかなわず、納得ができない部分が残っていることについては、どうしようもないと思っていました。
とはいうものの夢舞いの会議に出て、こんなに色んなことをたくさんしたかったMさんが今や、したくても何もできないということを思うと、事故の記憶が薄れるにまかせていることはできません。

仲間にとってでさえ、事故やMさんのことは記憶の水面下に沈んでいこうとしているのでしょうが、ご家族の悲しみや割り切れなさは、それとは反比例して膨らんでいくばかりでしょうし、Mさんご本人の悔しさは、いつまでも消えることはないのだと思っています。

そんな思いを胸に私は東京方面に滞在していた4日間のうち半日を使い、事故を調べた地元警察署の幹部に話を聞かせてもらったのに加え、昨日は現場となった山梨県丹波山村を3度目に訪れることにしました。

今回の出来事は事故であって事件ではありませんが、納得できない部分が残っている以上、事件を調べる際に定石である「現場100回」という言葉を思い出し、新たな気持ちで現場を訪れることで見えるモノもあるのではないかと思ったからです。
中でも一番大きな謎だった「なぜ道が分からなくなったのか」「なぜ危険な谷に下りていったのか」については現場を再び見ないで想像を膨らませていても何の解決にもなりませんし。

そして結論めいたことを先に言えば、それらの疑問はもちろん消えませんでしたが、少しだけ分かったように思えたのもまた事実です。
そんな今回の現地入りなどについて、本日から2回にわたって報告したいと思います。
(宿題になったままの中央アルプス・空木岳~越百山トレランの報告は、その後に続ける予定です。)
まずは写真9枚を掲載します。記事はこれから続けます。

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「こんなことをしていて何になるのだろうか」「こんなことに何の意味があるのだろうか」
これまで以上に大きくなる自分の中のもう1つの声を聞きながら、私はJR中央線の大月駅前で借りたレンタカーを飛ばし、小雨にけむるつづら折れの山道を飛ばしました。
そして、自分を納得させる言葉はこれまでと同じです。
「こんなことだけど、自分がやるしかないから」「自分自身が納得して、少しでも楽になりたいから」

警察署幹部の方は今回の事故について、Mさんを含む4人全員が理性的な判断をできる状態ではなくなっていたからこそ起きたのだということと、全員が被害者なのだということを強調してくれました。
そうした言葉を思い出しながら私はまた「全員が加害者なのだとも言えるのではないか」とも考えます。
どんなふうに、どれほどまでに理性的な判断ができなくなったのかを、知りたく思いもしました。

Mさんら一行が道に迷ったのは長い距離をこなして、ようやく国道に出るほんの1キロほど手前。
何10年か前までは人が住んでいたと思われる廃屋が残る、かつて「高畑」と呼ばれた集落の跡地です。
私が前回、現地入りをした際は、一行が踏んだルートの後半部分を同じ方向にたどりましたが、今回は国道から逆に集落跡を目指しました。
約20分後、早歩きして汗ばんできたころに国道のバス停を指し示す道標が現れ、集落跡に到着しました(左)。

一行がなぜ道に迷ったのかが全く分からず、背筋に寒いものを感じた前回は、時間の余裕がなかったこともあって集落跡の様子を詳しく見ることをせず、一行がどこから下りて行ったのかを調べてみようという気持ちすら起きないまま、私はそそくさと下山してしまいました。

そして今回まず気づいたのは、今も残る廃屋が3軒ほどあった思っていたのが、実は2軒だったということ。
最初の1軒の外側を山道がぐるっと巡っていたことから、その廃屋が2軒分だと勘違いしていたようです。
その廃屋の前には、前回も見た通り、お墓やお地蔵さまが並んでいました(中央)。
お地蔵さまは4人が道に迷うところを見ていたはずですが、そのとき声を出してくれたら良かったのになどと思ってしまいます。

「あそこまでならバイクでも行ける道がついている」
地元の救助関係者は、そんなふうに言って首をかしげていたものですが、その言葉通り、集落跡の一角には化石のように錆びて朽ちかけたバイクの残骸がうち捨てられていました(右)。

このバイクの残骸があったのは、1軒目の廃屋を過ぎて、標識のそばにある2軒目の廃屋に至る途中で道のわきにあったとみられる3軒目の家の跡地で、そこは石垣の陰になっていました。
一行が道なき道を下りて行ったのは、まさにこのバイクのある場所の先(写真では手前)とみられます。

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廃屋が残る高畑の集落跡は、急な斜面の途中に盛り上がった小さな尾根状の台地のような場所にあって、その先は再び急斜面に囲まれ、いわば断崖の途中にある要塞のような地形になっています。
下山してくる場合、山道はその前後で等高線とほぼ並行に斜面を横切る(巻く=トラバースする)「巻き道」になっていて、集落跡の台地の途中を通り、右にカーブを切りながら再び巻いていきます。
つまり一行は右にカーブを切らないまま台地の端まで行き、断崖のような急斜面を下っていったのです。

その理由は既に書いたように、山道が尾根上についていると「思い込み」、尾根状の台地の先に道が続いているはずだと勘違いしたこと、そしてそもそもが地形の読める地形図もコンパスも持っていなかったことから、その思い込みが生じることを防ぐことも正すこともできなかったことにあります。

とはいうものの、それでもなお踏み外すことがありえないと思えた道から外れたのは、どこなのか-。
それを検証するためのカギは「廃屋の広場から下りる道が見つからなかった」というメンバーの言葉でした。
そして、その「広場」とは、まさに台地の先端部分にあった3軒目の家の跡地以外にはありませんでした。

動画ではなく写真で、道から「広場」に入った場所を説明するのは難しいのですが、3枚を並べてみました。
まず、山道のわきから道を挟んで撮影した広場の様子は左の写真です。
手前に見えるブリキの箱のようなものは水道関係の設備のようで、内部で水が流れる高い音が「水琴窟」のように周囲に響いていました。
山道は画面の左上から下りてきて、2度ジグザグに折り返して、右下に続いています。一行は、この2つ目の折り返しをしないまま、その先に見える広場に入って行ったというわけです。

同じ場所を広場側から見たのが中央の写真。
今度は右上の石垣の上から下りてくる道が、やはり2度折り返して左の石垣と石垣の間に続いています。
2軒目の家や道標が現れるのは、ここからほんの数10メートル先です。

この2つ目の折り返し部分こそが一行の運命を分けた大きな「分岐点」となったわけで、その部分を近寄ってアップにして撮ったのが右の写真。
道は折り返した後、草に覆われてはいますが、踏み跡は明瞭にカーブして続いています。

明るい緑の草が芝生のように見える広場に気を取られて、そちらに進んで行ったことについては分かるような気もしますが、ここまで戻れば、いや、こちらを振り返りさえすれば、その先に続く道が見つけられないはずはないとしか思えません。

道が「下りる」という思い込みが、あまりにも強かったために、緩やかに下って行く道が視野に入らなかったということなのでしょうが、依然として理性的に考えてみても納得はいかないままです。

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ともあれMさんの一行は、ほんの20~30メートルほど戻って、実際にたどってきた道を確かめることもなく、この家屋跡とみられる広場の端から急斜面に足を踏み入れたようです。
その場所は見つけるのが難しいということはなく、樹林の海に突き出した岬のような格好をした広場の先端部分を越えると、ほどなく分かりました。
「ピンクのテープが幾つか見えて、それが道を示すものと思った」というメンバーの証言があったからです。

そのテープは樹林の中に突っ込むと、すぐに1つ目が見えて、さらに10メートルほどの間隔で2つ目、3つ目までがありました(左、中央、右)。
1つ目と2つ目のテープを撮った左と中央の写真では、それぞれ2つ目と3つ目のテープが右奥に、ごく小さく見えています。

樹林は、ご覧のように杉の植林地ですが、このテープが作業用の目印なのかどうかは分かりません。
ただ、枯れ葉や枯れ枝に覆われたこの場所が道などではないことは、すぐに分かりそうなものです。
3つ目のテープがある場所は、既に45度に近い急斜面で、すぐそばに行くことすらためらわれたほどです。
おそるおそる近づいてみると、足下で崩れた石がガラガラと音をたてて転がっていくほどで、普通なら、ここの手前で間違いなく「ここは道ではない」と判断して引き返すはずのところです。

ただ今回、私は「川が見えたので、下りようと思った」という証言通り、谷底の川面が見える場所までは行ってみたいと思っていましたので、この険悪な斜面を下りれるところまで、もう少し進んでみようとしました。

結果的には、川面まで100メートル足らずの場所までたどり着きましたが、そこはMさんが滑落した場所より上流の地点だったと思われます。
登り返せるかどうか、確実に安全に下りれるかどうかを慎重に確かめながら下った結果、一行が突っ込んで行ったより斜度のきつい斜面を避け、左にそれるようにして下りていったためですが、今から考えると、そんなことをしても何の意味もなかったわけで、自分のやったことも少し常軌を逸していたかもしれません。

さらに川に近づいた際、下りきって川を渡り、反対側にある林道まで登った方が楽かもしれないし、滑落現場にもたどりつけるかもしれない-などという考えが脳裏に浮かんできました。
結局のところは、最後の斜面を100%安全に下りきる自信がなかったことから、はるかに見上げる急斜面を再び登り返したわけですが、まさに理性を失う瞬間を体験しかけたとも言えます。
その詳細については、次回の記事で書くことにしたいと思います。

山懐に抱かれて

先月24日に東京と山梨にまたがる雲取山の登山口近くで起きた駆けっこ仲間・Mさんの滑落事故から10日以上が過ぎました。

私はこの間、名古屋から現地に2度赴いて現場近くの山に入り、地元関係者の話を聞いたほか、同行をしていたメンバーにも会って、その日に何が起きたのかを、私なりに検証できればと微力を注いでみました。
それにより、いまだ理解・納得ができない部分が残っているものの、遭難・事故の概要が、かなり見えてきたように思います。

このサイトを訪れてくれたMさんの身近な方や友人の方など多くの方々に、このつらい出来事がどんなふうに起きたのかについての話を読んでいただき、そのことが現実を受け止める努力の助けに、少しでもなるのであれば、ありがたく思います。

しかし、何をしたところで、結局のところ気持ちが晴れることなどありません。
自分のサイトに多くの方が訪問してくれて、「拍手」をしてくれることは、これまでなら、うれしいことでしたが、今回ばかりは複雑な思いがつのるばかりです。
ただ、分かることは、Mさんがいかに多くの方にとって大切な人であり、その多くの方がいかに今回の悲劇を悲しんでいるかということでした。

何が起きたのかを知りたいという、そんな方々の思いに応えることができればと、少しだけ無理をして5回にわたる報告を書いてきましたが、昨夜はさすがにダウンを喫して、一夜明けたあとに書いています。

とはいうものの、遭難事故に関する新しい材料は、今のところあまりありません。
かといって事故と同じ日に私が木曽御嶽山に出かけたトレランの報告の続きを掲載しようかと考えたものの、それはそれで気持ちの切り替えができません。

そこで、Mさんがこのところトレランに打ち込んでられた様子についてなど、少し視点を後ろに引いて今回の事故の背景のようなものについて書き加え、とりあえず一段落することができればと思います。

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紹介する写真は元に戻る形で、先月28日に私が最初に現地入りした際、事故現場から谷を隔てて反対側を通る林道で撮影したものです。

林道のわきには、先にここを訪れたMさんの身内の方が供えられた、花束や缶ビールがありました(中央)。
谷に下りる斜面は急峻で、身の危険を感じ滑落現場の谷底に降りることを断念した私は、持ってきた花束を、林道わきに並べて置かせてもらうことにしました。

林道わきには、先に紹介したホタルブクロのほか、タンポポの花も見られました(左)。

V字型に深く切れ込む谷の様子を分かるように写真に撮すことはできませんでしたが、手前の斜面に生えた木々の向こうに滑落現場となった対岸の斜面が見える写真を加えます(右)。
目をこらせば、上部の方で比較的緩やかな斜面が、途中から谷に向かって落ち込んでいるのが分かります。

私は滑落現場そのものを間近で見ることができていませんが、これまでに聞いた話を総合すれば、Mさんが滑落した45度を超えるような急斜面は、「ガケ」と表現するのが適当なほどの場所ですが、岩がむき出しになっているわけではなく、樹林に覆われています。

ただ一定以上の傾斜がある樹林帯の斜面は、木の幹などにつかまりながらにり下りすることが、容易そうに見えても、実際には次につかまる幹などがなかなか見つからず、まさに抜き差しならなくなって途方に暮れることさえあって、最初から行く手を阻まれる岩場よりもむしろ危険なことがあるものです。

普通なら足を踏み入れることも命を落とすこともないはずの、こんな場所で起きた事故の結果は、悔やんでも悔やみきれません。
それでも、無数の様々な生命が営みを続ける山懐の森に抱かれて、山が大好きだったMさんの命の灯が、最後の光を放ったことは、ほんのわずかながらでも「救い」のように思えます。

※※※

このところのトレラン人気によって、山岳遭難の統計の中にも「トレラン」のカテゴリーができるほどです。
しかし前にも話した通り、元々が「山ヤ」で、トレランという言葉が一般的になる以前から山を走っている私は、トレランによる山行と登山を区別する意識を持っていません。
フィールドとなる山は同じ山ですし、私の場合は、走ることはあっても、それはより多くの花や景色とであって写真を撮り、よりたっぷりと山を楽しむための手段のようなものだからです。

大きな機材を担いで、絵画を描くようにじっくり気合いを入れて撮る山岳・自然写真よりも、走り回って枚数を重ねていく「山のスナップ」のような写真の方が、より多くの被写体やシーンにであいながら撮ることから良い写真を撮ることができるケースもあると思っています。
そんなふうに写真を撮る私にとって、走ることは、より多く移動したうえ、写真を撮る時間をかせぐためにしているようなものなのです。

そもそも、せっかちで欲張りな私は、テントを担いで独り各地の森や山をほっつき歩いていた山ヤのころから、普通の登山者よりもずっと快速で、クレイジーなほどの行程をこなしていました。
山のトレーニングとしてでなく、もう少し本格的にランニングに取り組み始めたあとに、初めてのフルマラソンを3時間6分台で走ることができたのも、そうした下地があったからだと思います。

そして、山登りと平行してランニングを始めた私は、ほどなく自然に山を走り始めていました。
北海道に住んでいたころ始めて、やはりランニングと平行して続けたクロスカントリースキーの練習としても、ポールを両手に持つなどして山を走ることは、うってつけだったことも、その理由です。

山を走ってみると、重たい登山靴や山仕様のウエアより、軽いシューズやランニング用のタイツなどの方が、ずっと軽快に動けることを実感するなど、旧来の山のスタイルにこだわる必要はないことが分かりました。
とはいうものの、登山地図と一緒に地形図を持ち歩くなど、それまで着けた「山の作法」を手放すことも、もちろんありません。

急な登りを走り続けることなど、そもそもが無理ですから、ちょっと身軽な格好をして、平坦な部分や下りで、気が向いたら小走りする程度の「なんちゃってトレラン」を、続けてきているわけです。

そんな私にとって、このところのトレランのブームは、自分を追いかけてきたような感じすらして、悪い気はしませんでしたが、山で頑張って走ることや、トレランでレースをすることに対する違和感は今もぬぐえません。

唯一の例外は、昨年やっと制限時間内で完走を果たせた富士登山競走ですが、それにも事情があります。
人のいない深い森や山にあこがれを抱いていた私は長年、ネコもしゃくしも押しかけるような北アルプスさえ敬遠していて、5合目から上は山小屋がひしめき、森もなければ花も少ない富士山は、完全に山登りの対象から外していました。

しかし、マラソンに入れ込んで、なんとかフルマラソンで3時間、100キロで10時間を切ることができた私は、その2つと並び時間内完走が「市民ランナーの3冠」とされる富士登山競走も走っておこうと思い立ちました。
そもそも登山の対象としての魅力が薄い富士山ですから、レースで走るのなら良いと思ったわけです。

また、奥多摩の70キロ余りを徹夜で走る日本山岳耐久レース(ハセツネカップ)は、景色も見ずに夜通し走ることに違和感を持ちながらも、一度ぐらいは経験しておこうと数年前に出場しましたが、はなから一所懸命に走る気など、ありませんでした。
ただ、さほど魅力のない低山の数々を、この機会にまとめて走るのも悪くないだろうという思いはありました。

※※※

そんな不真面目なトレイルランナーである私にとって、Mさんをはじめ、多くの駆けっこ仲間がトレイル大会で次々に入賞を果たすなど、華々しい「戦績」を重ねられても、互いの健闘を祝福し合う拍手の輪に入ることはできず、一緒に山を走って「練習する」機会に加わることも、ほとんどしませんでした。

私にとってアルプスを含む、より深く高い山は走って楽しみに行く「遊びの本番」の場所で、より開けた富士山や人里に近いハセツネカップの山は、それよりは安全なところにあるレース・大会の舞台でした。

しかし、多くのトレイルランナーらは、どうやら実は富士山やトレランレースの舞台よりも深く、場合によっては危険を伴う山々を、「真剣な練習」の場所としているような気がしています。
より高低差があり長く走れる山の方が、練習の場所としてはふさわしいようには思いますが、トレーニングを積もうという真面目な気持ちが大きくなるほど、行程や行動に無理が生じるおそれが大きくなり、危険を呼び込む可能性も高くなるように思うのです。

しかも、そもそもが下界を走っていたランナーで、地図を見ながら道を探す「ルートファインディング」や危険を回避する身のこなし方といった「山の作法」に不慣れなメンバーが集まり、道案内がいて給水所もある大会と同じような気分で、より深い山に入ることは、やはり危なっかしく感じるわけです。

「山は気持ちいいわよ」と言って多くの友人を誘っていたというMさんは、本当に山が好きだったはずですし、その思いは、走らずに登山する人たちと何ら変わるところはなかったでしょう。

ただ、少なくとも、ここ数カ月、ほぼ毎週のように長距離のレースやハードな練習会をこなしてきていたMさんたちは、今から思うと少しばかり頑張り過ぎてしまっていたように思います。

1泊2日の登山コースである南アルプスの鳳凰三山を日帰りで走るなど、今回のコースに匹敵するような1日がかりのハードな練習を重ねることによって、Mさんも、同行していた仲間たちも、レースのパフォーマンスがどんどん向上しています。
お互いに「切磋琢磨し合い」、競い合う気持ちすら生まれていたようです。

私自身もフルマラソンで3時間を切ったとき、富士登山競走を完走したときは、シロウトなりに、それら目標を生活の中心に据えて頑張りましたので、そうした気持ちは良く理解できるつもりです。
それでも、そうして場合によっては無理の生じるような真剣な練習を、中級以上の山岳で続けてしまっていたことは危険を呼び込む背景になったのだと思います。

ほんの2日前に富士登山競走に出場していたMさんは、今回の山行きに誘われた際「今日はショートコースにしてね」と仲間に話していたそうですが、いつも頑張って着いてくるMさんの言葉は「冗談のように」とられ、コースの設定に加味されることはありませんでした。

雲取山の山頂でも、メンバーの1人が捻挫したあとに通過した最後の「エスケープルート」の分岐点・サオラ峠でも、メンバー全員の合意を基に、さらに予定通り進むことが選択されたということです。
せっかく山に来たのだから少しでも長い距離を踏み、練習の効果を上げたいという気持ちが、メンバーの間で暗黙の了解のようになっていたともされています。

ともに富士登山競走に出場し、捻挫をしていたメンバーや遅れがちだったとみられるMさんのことを、結局はグループとして思いやることができず、2人もまた、捻挫や疲れが他のメンバーの安全を脅かすおそれがあるとして、ショートカットなどを強く主張することができないでいた-。
安全が第一であるべきの山の中で、そうした常識的な判断が、なおざりにされてしまった背景には、どうやらレースや競技としてのトレランに対して、真剣に取り組む気持ちが強すぎたことがあるように思えます。

不真面目なトレイルランナーである私が言っても説得力がないことは分かっていますが、トレランでは、深い山に入るときほど注意深く行動して、真剣に頑張りすぎないようにするということもまた、今回の事故から引き出せる教訓の1つであるように思います。

夕闇のなかで

先月24日に起きた駆けっこ仲間のMさんの遭難事故については昨日まで計4回にわたり報告しました。
うち一昨日、昨日分の記事では、雲取山・飛龍山を巡ってトレランをしてきたMさんの一行4人が、事故現場近くまでの行程の後半に通った「天平尾根」をたどって私が行った「慰霊登山」の様子を交え、一行の行程を追体験する格好でレポートをしました。

しかし、昨日の記事で書いた通り、一行が道に迷ったという集落跡からコースを踏み外すことは「あり得ない」という思いを私は抱き、その場所から一行が谷に突っ込んで行った過程は追体験できないままでした。
とはいうものの、一行のメンバーから話を聞かせてもらっているからには、その後の様子だけを書かないわけにはいきません。

ただMさんが亡くなってしまうという悲しい結末に至る過程については、この場で書きづらい内容もあります。
もちろん私自身が最後に起きた滑落事故の現場そのものを見ていないことから、関係者らに聞いた話だけをつなぎ合わせる作業をすることになり、記述に正確さを欠くおそれもあります。
ですから、この後の内容については、そうした事情を了承していただいたうえで、お読みください。

既にお分かりの通り、このサイトはランニングや山、写真などをめぐる私の個人的なサイトであるものの、このところMさんの悲運の死を悼む仲間や友人の方々に集っていただき、皆さんそれぞれが抱かれているMさんの思い出や悲しみの気持ち、そして遭難事故に対する疑問や感想などを語っていただく場にもなっています。

新聞のベタ記事や断片的な情報だけでは分かり得ない遭難の経緯について、Mさんの身近な方々をはじめなるだけ多くの方に知ってほしいと願って微力を注いでいる私としては、それはありがたいことです。
ですから、本当は現場を直に見ることなど、やり残していることを終えてから報告をまとめたいという気持ちもあるものの、こうして不十分な内容であっても、知り得たことは順次、話していくことにします。

※※※

長い前置きの後に、いましばらく多少の脱線をします。
Mさんの一行が道に迷って谷に突っ込んでいった、いわば運命を分けた2つ目の分岐点と言える集落跡なのですが、昨日の記事で書いた通り、ここを訪れた私も地元の人たちも、ここで道に迷うなどあり得ないと思っています。
ただ、自分の過去の山行を振り返ってみると、あり得ないような道の迷い方をしたことも、確かにあります。
しかも、印象的なケースの幾つかは、今回と同じように夕暮れのころに起きたのです。

まずは、遠く私が中学生だったころ。
中学時代から雲取山並みの中級山岳に、時には山小屋に泊まって友人同士で出かけていた「ませた子ども」だった私は、確か中3の夏休みに京都・滋賀・福井の府県境、日本海に注ぐ由良川の源流地帯にある広大な原生林「芦生の森」に友人2人と出かけました。ふもとの宿泊施設を利用して1泊2日の旅行でした。

「京都北山」の奥座敷に位置するこの森は、標高こそ900メートル程度と低いものの、クマも数多く生息する近畿地方有数の深い原生林で、京都大学の演習林として長らく守られてきています。
西日本の低山でありながら豪雪地帯でもある森には、北方系・南方系の動植物が入り交じって複雑な生態系が保たれ、ブナやミズナラの森の中に「北山杉」の祖先であり、雪で曲がって地面に着いた枝から新しい木が育つという「芦生杉」の大木も見られます。

深い森だけに、その核心部を蛇行して貫く由良川に沿った道は健脚の大人でも、たっぷり1日かかりますが、私たち3人は源流の最後の谷に沿って京都・福井の府県境にある峠まで登り、さらに分水嶺を越えて福井・小浜市側の渓谷に下りるというハードな計画を立てました。

人の臭いがする京都北山とは、まるで別世界の美しい原生林と渓谷の美しさをたんのうした私たちが峠までたどり着いたのは案の状、夕方のことでした。
それでも、計画通りに谷沿いの道を下れば、なんとか2日目のうちに帰れそうな時間だったと思います。
しかし、どんどん下って行った先の渓谷の景色は、ブナが生い茂る原生林のもので、植林地も広がっているはずの福井側の景色とは思えません。そこはまた、由良川の支流が流れる原生林の一角だったのです。

私たちは目を疑いながらも、自分たちに一体何が起こったのか、しばらく理解ができませんでした。
小学生のころから地形図に親しんで、そのころ既にいっぱしの山ヤのつもりでいた私ですが「なぜか」地形も方角も見誤っていたのでした。

その後、ようやく福井側の谷を見つけたものの、今度は道が不明瞭で、私を含む中学生3人は、ずぶ濡れのドロドロになりながら谷の中を下り、夕暮れ時にたどり着いた林道で、山仕事の車に乗せてもらって、国鉄の小浜駅に向かいました。列車を乗り継いで大阪駅まで来ると、乗り継ぎの電車は既に終わっていました。

※※※

そしてまた思い出すのは、3年前の9月、独りで韓国の名山・智異山(ちりさん)に独りで登ったときのこと。
主峰で、山脈の東端にある天王峰(チョナンボン)近くの山荘で1夜を明かした私は翌日、天王峰の日の出を見た後、西の端にある山・老姑壇(ノゴダン)まで、1泊2日コースを1日で小走りしました。

しかし途中で知り合った韓国の登山者と一緒に歩くなどした結果、老姑壇の手前、一般道路まで2、3時間もかかる山で夕暮れを迎えました。
それでも道はしっかりしていて、真っ暗になっても真っ直ぐ行けば道路まで出られることは分かっていました。

ところが、その山から木の階段を何百段と下りたとき、さっき見たのと同じ看板が目に入り、焦りました。
私はなんと、山頂の広場で一休みした後、元来た道を下っていたのです。
まさに「キツネにつままれた」ようで何が起きたのか分からず、さすがに焦って胸がドキドキしました。

地図によると、山頂は三叉路になっていて、私が通らない道は「登山統制」といって一定期間、立ち入り禁止になっていました。
私は、ロープにボードが下がって侵入禁止になっているルートに気をとられ、「ここはダメだ」とばかり思って、休憩後に元来た道を下り始めてしまったのです。
間違いに気づいた後、クタクタになって山頂広場に戻ってきたところ、行くべき道は、入口だけ草に覆われて見えにくくなっていたのでした。

その後は、ヘッドランプの明かりをたよりに、身体中の神経を敏感にさせて異国の夜の山道を歩きました。

そう、山の夕方には「信じられないような」誤りを起こすことがあるものなのです。
そして今、私自身の失敗談と、今回の遭難を合わせて容易に分かることは、いずれのケースも丸1日に及ぶハードな行程を経たうえで迎えた夕方だったということです。

道に迷うことはなくても、長い山の行程の終わりごろやレースの終盤、疲れたうえに少しだけホッとして気が緩み、転倒や捻挫をすることがあるものです。
私の失敗談でも、峠や山頂は分岐点ですから、慎重に行く先を見極めるべきだったところを、「峠に着いた」「山頂に着いた」という気の緩みが疲れを呼びさましてか、冷静な判断をし誤ったような気がします。

また夕方という時間帯は「まだまだ」明るいと思っていても、実は視野はぐっと暗く、狭くなっているものです。
オート露出で撮るカメラのシャッタースピードが、夕暮れの森の中ではガタっと遅くなることを考えると、人の目や脳もまた少ない光を受けるのに苦労し、明るさを「増感」して景色を眺めることにより、負担が大きくなることは想像できます。

そう考えると、Mさんたち一行が夕暮れ時に集落跡に着き、「やっと人里近くに下りて来た」などと思ってホッとしたことが、誰もが「信じられない」と言う標識や下山道の見落としにつながったのではないかと言えるような気もするのですが…。

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さて、ようやく先月24日にMさんたちが遭難した天平(でんでいろ)尾根からの下山道に戻ります。
最後の「エスケープルート」をやり過ごしたサオラ峠から、細長いテーブルのような緩やかな尾根上の山・丹波(たば)天平を経て、一行が標高約800メートル、国道の親川バス停までわずか約1キロの集落跡・高畑に来たのは午後6時ごろとみられます。

手前にあるもう1つの集落跡・後山から高畑に至る道は、天平尾根が北東側にある後山川の谷に落ち込む斜面の中ほどを、等高線とほぼ並行に「巻いて(トラバースして)」ついていて、後山の廃屋が見えるころは、左側の急斜面が杉の植林地になっていました(右)。

一行のメンバーが「電柱まであった」と証言している通り、電柱を支えるケーブルのカバーには道標代わりの赤いテープが巻かれていました。手前の後山に残っているのは屋根の落ちた家と石垣だけですから、一行がここまで来たことは間違いありません。

そして昨日も話したように、そのほんの数10メートル先にある家の石垣下に目的地・親川バス停を指し示す立派な道標が立っているのです(左)。

地形図を見ると、高畑の集落跡は天平尾根の北東斜面の途中が少し盛り上がる格好になった尾根状地の上にありますが、地形図を持たないメンバーは天平尾根の上にあるのだと思い込んでいたました。
そして、廃屋を結び、尾根状地を乗り越えて南に向かって急斜面を巻いて行く明瞭な道が「見つけられず」、道に背を向けて谷に向かったようです。

そこは初め植林地で、林業用の目印なのか、木の枝に幾つもつけられた真新しいピンクのリボンが、下山路を示すものだと思い込んで下って行ったということです。
地形図で集落跡と滑落現場を結ぶと、初め標高差80メートル、距離約200メートルほどは比較的緩やかな斜面ですが、その後は標高差約160メートル、距離約130メートルという、実に45度以上のガケが谷底に落ち込んでいます。

「谷が見えたので、ここを下って川沿いに下流に行けば国道に出られる」
ちょうど傾斜が変わるころに足下が見えたのでしょう。そんなふうにメンバーは思ったということです。

45度を超えるようなガケを目の前にすると、普通は尻込みして問答無用で引き返すはずだと思います。
しかし西の空を背に谷に近づいた樹林の中では、既に薄暗くなっていたようで、一行は時間的な余裕がないからなどとして戻るという選択肢を排除し、ガケに突っ込むことを決めたということです。
また丸1日のハードな行程を経て、もはや1歩も登りたくないといった気持ちもあったのではないでしょうか。

とにかく標高差約160メートルの急斜面を半分以上過ぎた後、Mさんは50~70メートルを滑落しました。

目の前にあったはずの道や道標を見落とし、「命綱」となるべき地形図を持たないまま、進路について誤った思い込みをした末に道に迷い、しかも山の定石に逆らって引き返すことをせず、ガケを下りて行った-。
ゴールまで約1キロ、10分のところまで来ながら、一行がこうしたミスがを重ねた結果、悲劇は起きました。

※※※

一行はガケを下り始めた当初、それぞれがあまり離れずにいたそうですが、3番目にいたMさんが滑落した瞬間、先の2人は既に谷底に下りていて、うち1人はMさんが石と一緒に落ちてくるのを近くで見ています。
つまりMさんは、数10メートル以上も引き離されていたということです。

山では普通、危険な場所を通過する際、パーティーのメンバーは離れずに行動するものです。
ガケを下りるとすれば、どの場所に足を置き、どの岩や木につかまるかなどについて、後ろの人は、前の人を手本にできるうえ、後ろの人が滑っても前の人が支えるなどできるからです。
また、急なガケで間隔を開けると、後ろの人が落とした石が前の人に当たる危険もあるからです。
しかし、前に居た2人は待っていても「休むところがないから」などととして、Mさんら2人を後に残しました。

しかも、当時は既に夜のとばりが下りて、ライトなしでは木も岩も見えづらくなっていたそうです。
Mさん以外の3人はヘッドライトをつけましたが、Mさんだけはライトを取り出すよう勧められたものの、余裕がないからと言ってライトを着けることができなかったということです。
バックパックを抱えてライトを探すこともできないような急斜面だったというなのでしょう。
そして、後ろのメンバーのライトを頼りに進んでいたというMさんは、とうとう滑落してしまいました。

先に下りた2人は斜面を左斜めに進み、そうすれば、なんとか谷底までたどり着くことができて、残った1人もMさんが落ちた後、そうするように指示されて無事に下りて来ました。
しかし先の2人は、下り立った場所の川岸が狭く休めなかったため、Mさんの真下まで移動していました。
その2人のライトが見えたことから、Mさんは斜めではなく真下に向かおうとして滑落したのではないかともみられています。

こんなふうにして、Mさんが突然、人生の幕を下ろされてしまう悲惨な事故は起きました。

谷底に落ちたMさんは、初めのうち言葉にならないような声を出すことができたようですが、地元関係者らが現場にたどり着いたころには、残念ながら手遅れの状態だったと聞いています。
しかし翌日、現地の近くで、だびに付される際には、家族らに、おだやかな表情を見せていたそうです。

※※※

間違うはずのない道を見つけられなかった時点で、既にメンバー全員が疲労などのために正常な注意力や冷静な判断力を鈍らせていたとも思えるだけに、最後の瞬間までに積み重ねられた幾つものミスについて、誰かの責任を問うということは難しいことなのだろうと思います。
それに、そんなことをしてもMさんは戻ってきませんので、意味がありません。

しかし胸が痛いのは、一行の中で最も体力的に弱く、疲れてもいたはずのMさんが結果的には守られることなく命を落としたということです。
私と同年代という年齢や女性であることを考えれば、いくらトレイルレースで年代別の入賞を果たす力があるMさんとはいえ、レース2日後にしてはハードすぎるこの日の行程の中にあって、最も注意深くいたわられるべきだったのではないでしょうか。

特にガケの上り下りには脚力とともに腕力が要求されるわけで、それをこなす際、女性はランナーであっても男性より格段に能力が落ちるのが当然です。ですから、これまた結果論ですが、ガケを下りようとした行為はまさに「自殺行為」だったと言わざるを得ない気がします。

事故を防ぐことができたはずの幾つもの時点で、メンバーの間で交わされた言葉の詳細までは、知ることができませんが、大人4人が一緒に行動しているわけですから、すべての選択は全員でなされたのでしょう。
それでも、負けず嫌いで頑張り屋のMさんが、最後の瞬間まで、しんどさや怖さを感じながらも、それをあまり口に出すことなく我慢していたのではないかと思うと、やりきれない気持ちになります。

天平を慰霊登山2

駆けっこ仲間で美人のウルトラ・トレイルランナーだったMさんが、雲取山の登山口近くで滑落事故に遭って以来、何人かの関係者に会ったり現場に出かけたりしながら断続的に報告を書き続けていて、本日は昨日、現地を2度目に訪れて行った慰霊登山についての記事の2回目を書きます。

美しくて知性にあふれ、活動的で生き生きとしていたMさんが、いかに大勢の人にとって大事な人だったかということは、私のブログを訪問してくださる方が、このところ倍増し、数え切れないほどの「拍手」や「コメント」をいただいていることからも良く分かります。

そうしてコメントなどをくださる方のほとんどは、私と同じく、Mさんが亡くなったことが残念でたまらなく、しかも事故の経緯がなかなか納得できないからこそ、私の報告を読んでくださっているようです。
また、Mさんを直接知らなかったらしい方からは、記事の内容が、「(当日のトレランに)一緒に行かれた方の批判をしているだけのように感じた」という意見もいただきました。

Mさんが戻ってこられない以上は、誰かを批判しても何も得ることはないと分かっているつもりの私ですが、自分の中で整理のできない気持ちを、何かにぶつけたい気持ちがあることも確かです。
ですから誰かを責めるのではなく、事故から何らかの教訓を引き出すことこそが大事なのだと分かっていて、客観的な立場を保とうとしていても、感情を隠しきれないのかもしれません。

ただ、尊い人の命が山の中で失われていながら、そこには「自然の猛威」のような不可抗力がほとんど見当たらない今回の事故については、Mさんご本人を含めて同行したメンバー全員に多かれ少なかれ、何らかの原因があったと言わざるを得ません。
だからこそ「遭難ですか。残念でした。仕方ありませんね」で終わらせることは、してはならないと思います。
それでは、まだまだ輝かしい人生が待っていたはずなのに突然、命を落としたMさんの死が無駄になります。

そして、一緒にトレランに出かけて一緒に事故に遭遇したメンバーがつらいのと同じように、一緒には行かなかった駆けっこ仲間や、そのほか大勢の友人たちも、つらくて割り切れない気持ちを抱えているのです。
それより何より、一番、無念で悔しいのはMさん本人であり、身内の方々であることも間違いありません。

ですから、身内や多くの友人の方々が、いまだに、その日に何が起こったのかについて納得をされていない以上、明らかにできる限りの事実を明らかにしたうえで、こうした悲劇を2度と起こさないようにするためには何ができるかを考え、議論することこそが大事だと思っています。

前置きが長くなりましたが、慰霊登山の報告を少しずつ書き進めたいと思います。

※※※

さて、雲取山、飛龍山を経て長い山旅をしてきたMさんの一行が、近道をして下山する「エスケープルート」をやり過ごしたサオラ峠から、私も一行が突き進んだのと同じ尾根づたいのルートをたどりました。
標高1400メートル余りのサオラ峠から西南西に数キロにわたって伸びる尾根は「天平(でんでいろ)尾根」と呼ばれ、その途中にある三角点「丹波天平」の標高は峠よりも低い1342メートル。
尾根は進行方向に向かって長らく、緩やかに下っていくのです。

この尾根は、雲取山の界隈をかなり歩き尽くしてきた私が、以前から訪れたいと思っていながら、その機会を逸してきた場所でもあります。

私がひかれていた理由は、細長いテーブルのように起伏が少なく広い尾根が続くという奥多摩の山では他に例を見ない地形と、「天上の別天地」を思わせる、その魅力的な地名でした。
昔から地形図を眺めて景色を思い浮かべるのが好きだった私は、2万5000分の1の「丹波山」の地図を、何度となく眺めて、長い時間、まだ見ぬ別天地の景色を夢想したものです。
そんな取っておきの場所に、こんな形で訪れることになろうとは、運命の皮肉を感じざるを得ません。

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まるで牧場のような平らな山頂部が広がる丹波天平の付近は、天気の良い日にゴロリと寝転がったら気持ち良いだろうと夢想していた場所ですが、私が足を踏み入れた昼下がりには、「涙雨」にけむっていました。
Mさんの一行がトレランをした日も、雨こそ降らないものの、コースの尾根はずっとガスに覆われて、視界はあまり良くなかったようです。

尾根の上には広場のような草原もありましたが、多くの部分は、広葉樹が優勢な自然林が広がっています。
しかし、樹林の林床にヤブはあまり発達しておらず、広い範囲を見通せるところが少なくありません(左)。

Mさんの救助に向かった地元の関係者が話していた通り、道は踏み跡が薄く、落ち葉や枯れ枝に覆われていて、明瞭とはいえません(中央)。
広く平らな尾根の上で道をたどっていくには、それなりに神経を使い、これ以上けむったり暗くなったりしては道に迷ってもおかしくないほどです。

もちろん、迷いやすい山道に良くあるように、ここにも木の幹や枝にくくりつけた道標代わりの赤いテープが所々に見えて、これによって、自分が迷っていないかを確かめながら進むことができます(右)。

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長いテーブル状の尾根が、いよいよ終わりに近づき急に傾斜を増すころ、道は尾根筋を外れて左にカーブし、植林地も交じる斜面を下りていきます。
登山地図では、このあたりに「迷(いやすい場所)」のマークがついていますが、実際には、斜面が急になってきた分、左右にそれることが難しくなるため、道の踏まれ方がしっかりしてきます(左)。

そして、いきなり目の前に現れるのが立派な岩垣や屋根が落ちて朽ち果てた廃屋の跡(中央、右)。
かつて炭焼きなどの人が住んでいたという「後山」の集落跡です。
道はこの先、傾斜とは垂直方向に、等高線とは並行に進みますが、ずいぶん以前とはいえ、人が住んでいた場所にたどり着いたとあって、踏まれ方もより、はっきりしてくる感じです。
ただ、右の写真を見ると分かるように、周辺の斜面は急勾配で、左の谷に向かって落ち込んでいきます。

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後山から10分ほど、等高線とは並行についた「巻き道」をたどると、次の集落跡である「高畑」に着きます。
ここでは、つい数10年前には人が住んでいたとみられる2階建て家屋を含む立派な廃屋が数軒、道沿いに並び、人里が近いということを思わせます(左、中央)。

Mさんの一行は実は、ここまでたどり着いていることが、目にしたものの内容などから確実なのです。
「下まで下りて来たという感じがして、ほっとした」などと一行のメンバーは話してくれますが、ここから続く道の入口が、どうしても見つからないまま、谷に向かって下りて行ったのだということです。

しかし、道に沿って次々に現れる廃屋の最後の1軒を過ぎるあたりに、下山先である「親川バス停」と書いた立派な道標があるではありませんか(右)。

私が背筋に寒いものを感じたのは、まさにこの道標を見た瞬間でした。
廃屋ごとの敷地の土台部分にある石垣の下に沿って明瞭に続く道の先に、この道標が立っていて、それは探して見つからないようなものでないばかりか、探さなくても目に入ってくるはずなのです。
中央の写真の左下、石垣の先に見える白い看板の左手前にも、道標が見えていて、ご覧の通りなのです。

私は当初、この集落跡から続く下山道の入口の分かりにくさを確かめたうえで、一行が間違えて下りて行ったルートの入口も見ることができればと思っていましたが、間違えようのない場所を探すことは不可能に思えて先を急ぎました。
ここに来る道すがら私は「本当に迷いやすいのなら、自分で道標をつくり、慰霊碑などとともに担いでこよう。そうすれば、少しは気がやすまるかもしれない」などと考えていたのですが、既に立派な道標があるのでは、そんな必要は、どう考えてもありません。なんという見事な肩すかしでしょうか。

ここからの道は、いっそう明瞭になってハイキングコースのような歩きやすさ。
下りきって国道のバス停に着くまで、わずか10分ほどしかかかりませんでした。

つまり、Mさんたちは、どう考えたところで間違いようのない場所から、わざわざ谷に向かって道なき道を突き進んで、夜のとばりが下りてしまったころ、最後のガケに行き着いたということになります。それも、ほんのあと10分で無事にゴールできたというのにです。これでは、本当に悔やむに悔やみきれないというものです。

私は、あまりに驚いて、前回の現地入りで会えなかった救助関係者を訪ねた際、このことを話しました。
「そうなんですよ。なぜあそこから谷に下りて行ったのか、分からないんですよ」
そう言って首をかしげる関係者はまた「あそこまではバイクでも登って行けるんですけどねえ」と付け加えて、絶句されていました。

※※※

メンバーの証言によりますと、立派な看板まで立っていた下山道の入口が目に入らずに、それに背を向けて谷に向かってしまった原因は、集落跡のある場所についての間違った「思い込み」にあったようです。
先に話した通り集落跡は天平尾根の尾根筋から左に外れた巻き道の途中にあるのですが、それがなぜか「尾根の上にあると思った」というのです。

確かに、集落跡は急な斜面の途中から少し出っ張った小さな尾根状の場所にあるのですが、その先は急に切れ落ちるようなガケになっていて、そこがまさに一行の突っ込んでいった場所なのです。
メンバーは最初、植林地の樹木の幹に真新しいピンクのテープがついていて、それが道標代わりのものだと勘違いをして、それに誘われるように急斜面を下りて言ったと証言してくれています。
そして、ガケまで来たときに足下に沢が見えたことから「下りて沢を下れば国道に出られる」と思ったのです。

では、そもそもなぜ、そんな誤った思い込みがなされてしまったのか。
それはまさに、迷った後の「命綱」にもなったはずの地形図を持っていなかったからだと言えます。
地形図には2つの集落跡も、はっきり描かれていて、地形図と登山地図の両方を持っていさえすれば、道に迷うはずもなく、そのまま谷に突っ込むこともしなくてすんだはずだと思えます。

地形図を見れば、このあたりの等高線は地図に描けるギリギリの狭い間隔でびっしりと並んでいて、明らかに滑落の危険があるガケが標高差150メートルもの高さで待ち構えていることが一目で分かります。
それに、道が等高線に並行に通っている「巻き道」であることも一目瞭然ですから、迷ったときに高いところを目指して戻って行けば、必ず道にぶつかるということも容易に想像がつくからです。

しかし、何を言っても始まりません。Mさんが戻ってこない以上、空しさがつのるばかりです。
それぞれの場面で、メンバーの間で、どんなやり取りがあったのかなど、知りたいことはまだまだありますが、ガケを下り始めて事故に至るまでの経緯や状況はデリケートな部分を含みますので、どの程度まで明らかにすべきか迷いもあります。

とりあえず慰霊登山と、それを軸にした道に迷うまでの経緯についての報告は、本日はこのあたりでいったん区切りをつけようかと思います。

天平を慰霊登山1

駆けっこ仲間のMさんが山の遭難で亡くなって以来、割り切れない思いがつのるばかりで、そのほかのことがほとんど考えられなくなった私は、昨日、Mさんが一緒にトレランに出かけたメンバーの一部から話を聞いたのに続いて本日は、先月24日に行われたトレランの行程の後半部分だった山梨県丹波山村のサオラ峠から西に伸びる「天平(でんでいろ)尾根」をたどる慰霊のための登山に出かけました。

「どう考えても、あり得ない事故」という印象が強くなるばかりの今回の遭難は、あり得ないような判断ミスが幾つも重なった末に起きているようです。普通は夏場に遭難して死に至るなど考えにくい山域で起きた事故ですから、それは当然のことなのです。

事故というものは本人たちの意図しないままに遭遇する災難ではありますが、今回の事故は自然がもたらす大震災やランニング大会中に突然倒れる事故、山に行く途中で遭遇する交通事故などとは全く違います。
滑落することが初めから予想される沢登りやロッククライミング、危険な岩場を通るような登山中の遭難事故とも、やはり性格が異なります。

どんな事故であっても、幾つかの原因や不運が重なって起きるもので、かけがえのない人間の命が失われる事故はそんなものなのでしょうが、今回の事故は、防ごうとすれば防げたはずの判断ミスが重なって起きているだけに、あまりにも信じられず、悔やんでも悔やみきれません。
だからこそ、こんなことが2度と起こることのないように、この事故が語る教訓のようなものを引き出したうえ、明らかにすることが大事だと思うわけです。

Mさんが最後の瞬間に抱いたはずの無念を少しでもやわらげて、自分自身の割り切れない思いを飲み込むために私はできるところまでは事故のことを整理したいと思っています。
そしてMさんたちが通った道を独りでたどった本日の慰霊登山では、「なぜ道に迷ってしまったか」について、ある程度の答えを得られるのではないかと期待をしながらルートを観察しました。
「ああ、ここなら迷っても仕方なかったよな」と思うことができれば、重たい気持ちの一部が少しでも軽くなるのではないかと期待したのです。

しかし、結論を先に言えば、そうした私の期待は見事に裏切られました。
「ここで迷うなんて、どう考えても、あり得ない」というのが正直な感想であり「客観的な印象」でした。
そのことが分かった瞬間、あまりに驚いて、背筋が寒くなるのを感じたほどでした。
なぜそんなふうに感じたかについては、たぶん次回の記事で詳しく整理して話すことができると思いますが、本日はとりあえず、サオラ峠までの様子を簡単に報告することにします。

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Mさんら一行が登った雲取山は標高2017メートルで東京都の最高峰ですが、山頂は山梨県との都・県境に位置しています。
雲取山の東京側にある登山道はいずれも良く整備されていて、季節が良ければハイキング気分で足を踏み入れても大丈夫な道がほとんどです。

それに対して雲取山の山梨県側は、奥秩父の山々に連なる長大な稜線をたどる縦走路をはじめ、どの道も訪れる人が少なめで道の良くない部分が多いうえ、アプローチも長くて、完全に登山の対象となる領域と言えます。
一行が雲取山に登った後にたどったのは、奥秩父の最初の主な山・飛龍山(2069メートル)までの縦走路、そこからサオラ峠を経て、事故現場に近い青梅街道沿いの親川バス停付近まで伸びる10キロ以上もの長い尾根です。

その尾根の途中にあるサオラ峠は標高1400メートル余り。
丹波山村の中心地で、多摩川の上流部・丹波川に沿った標高650メートルほどの丹波の町から、雲取山と飛龍山の山懐に抱かれた鉱泉の湧く山小屋「三条の湯」に至る道の途中にも当たります。
この道は雲取山の山梨県側にある主要ルートであるだけに良く踏まれていて、サオラ峠で交差する飛龍山~親川の尾根道とは対照的です。

私は以前、雲取山の東京側の登山口の1つ、日原から山頂を越えて三条の湯を経由し、サオラ峠を越えて丹波に降りたことがあり、今回は逆方向からサオラ峠に登ることになりました。
丹波の町から峠道に入ると、ぐんぐん高度が上がり、間もなく山に囲まれた町並みを望めます(中央)。

道が畑地を横切るところでは、シカやクマの侵入を防ぐために金網の扉が設けられています(左)。
「熊出没注意」とありますが、各地で増えているシカに出あうことは、奥多摩や丹沢の山では、ごく普通であるもののクマに出くわすことは多くないようです。
私も以前、東北地方の山で沢を隔てた反対側の斜面でクマを見たことがあるものの、それ以降クマにであう「幸運」に恵まれることはありません。クマはそれほど生息密度が低く、臆病でもあるようなのです。

そんなクマにであうことよりも、今回の事故で一行が最後に下ることになった急斜面のガケに突っ込むことの方が、はるかに危険ですし、防ぎようのあるはずの危険だった-。
クマへの注意を促す注意書きを見ながら、私はそんなふうに思いました。

樹林の中に入ると、大きくて真っ赤なキノコが道のわきから生えていて、ここが都会から遠く離れた別世界であることを感じます。

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丹波の町から見上げると天平尾根の上部は白く低い雲に覆われていました。
雲の中に入っていくと雨粒が落ち始め、沈んだ心にはむしろ心地よい、まさに「涙雨」でした。
そもそも雨の山は、自然の度合いが深まる感じがして、風や寒さが伴わない限り気持ち良いものです。
土や樹木が香り立って、山の「気」が肌にまとわりつき、身体に染み込んでいくような感じさえするのです。

たとえ道に迷って夜になったとしても、さらに雨が降ったとしても命が奪われることなどないはずの夏の中級山岳で、山を脱出することに焦って谷に突っ込んでいったという暴挙は、やはり信じることができません。

そんなふうに何かにつけて事故のことが思い起こされ、それで頭を満たしながら淡々と小走りで峠道を登っていくと、道ぎわの落ち葉の上で、ゴソッと音をたてて動く影がありました。
見事な保護色で、すぐに何かは分かりまんでしたが、それは巨大なガマガエルでした(左)。
そう、当たり前のことですが、山という場所は無数の生きものに満たされていて、人もまた自然に逆らうようなことさえしなければ、生きものたちの生命力を感じながら「山の精気」に浴することができるのです。

峠道の両側は初め、針葉樹の植林地が多かったものの、次第に自然林に覆われるようになり、峠が近づくと「ブナ帯」の広葉樹の深い森になります。
木々の幹や頭上を覆って茂る葉は白い「ガス」にけむって幻想的なシルエットを描き、大きな葉のトチノキは、幾つもの手をかざしたように見えていました(中央)。

本日の行程は登山のコースタイムで4時間、実際の所要時間は3時間ほどのミニ山行でしたが、人があまり多く入らない地域であり、ほんの1週間前に4人が迷っているとあって、私はいつも持ち歩く超軽量・撥水性のコンパクトなウインドブレーカーに加えて山用の防寒具を兼ねた雨具を担ぐなど、万全を期して臨みました。
名古屋から持ってくるのを忘れた磁石も、レンタカーを借りたJR中央本線の大月駅前で、文房具屋に寄って調達して行きました。

雨具のズボンをはいてプラスチック製のポンチョをかぶるなどした時間もあり、サオラ峠に着いたのはコースタイム1時間40分のところを1時間20分ほど経過してからでした(右)。
「サオラ峠から降りるべきだった」などと一行のメンバーが振り返る通りで、ここはMさんをはじめとする一行の運命を分けた最も大きな分岐点となりました。

4つの方向を指す道標の大きさは、いずれも同じですが、交差する道の整備のされ方は相当に違いますし、何よりも絶対に安全な国道に出るまでの時間が峠道ならコースタイムで1時間、尾根伝いなら2時間20分と大きく異なります。
そして、ここで「エスケープルート」の峠道を降りるべきだったと言える理由は、既に幾つもあったのです。

※※※

ここからはメンバーに聞いた話の骨の部分で、詳細については追って書き加えたいと思いますが、とりあえず数点を挙げることにします。

まず一行の4人のうちMさんを含む男女2人は、2日前に富士登山競走の5合目コースに出場していること。
Mさんの出場については前の記事で触れましたが、Mさんだけではなかったのです。
このレースは来年の頂上コースの出場権を得るためのもので、ギリギリの走力だったMさんも、さらに走力のある男性も同じように自分の限界に近い頑張りをしたはずなのです。
標高差1500メートルを2時間半の目標で駆け上がるレースは、ハーフマラソンよりもずっとハードで、ロードなら30キロレースほどの負荷が身体にかかっていたはずです。

そして驚くことに、男性の方は飛龍山を越えたあたりで捻挫をして、ほとんど走れなくなっていたのです。
捻挫をした場所は、ちょうど本格的な下りに差しかかって道が悪くなったところ。
一行の中で最も走力があったとされる男性の捻挫は、やはり富士登山競走の疲れが背景にあったはずだと思えます。

ケガや病気の多くは、無理をしている身体に対する警告のようなもので、それを素直に受け止めて、一層の養生に心がけることこそが大切です。だからこそ「一病息災」といった言葉もあるのでしょう。
しかし今回は、せっかくの警告を無視する格好で無理を重ねた結果、さらに重大な悲劇を呼び込みました。
過酷なレースの直後に、これまで以上にきついコースで練習をした結果、2人のうち1人が命を落とし、1人がケガをしたということです。
1人がケガをしていれば、全員に危険が及ぶ可能性があるわけで、ケガを押してさらに進んだという判断は、どんな説明を受けても私には理解ができません。

次に、そのケガのため、その後のペースは登山のコースタイムと同じぐらいに落ちた結果、一行がサオラ峠に到着したのは午後5時前だったということ。
コースタイム通りに進めば、それでも、なんとか真っ暗になる前に下れる可能性があったかもしれませんが、それはあまりにも無茶な「冒険」と言わざるを得ません。

私も暗くなるまで歩いたり走ったりしていることはありますが、それは絶対的に安全な場合に限ります。
以前に来たことのある場所か、道が完璧に整備されていたり林道だったりして、ヘッドライトを頼りに進んでも危険でない場合か、万が一に迷ってもリカバーできるような地形の条件か-など。
そうしたことを考え、細心の注意を払った上でなければ夕暮れ以降の山での行動は命にかかわるからです。
ところが今回は、男性の捻挫ひとつをとっても、悪化しないとは限りません。

そして、それに関する問題であり、極めて重大だった誤りは、このコースが一行の全員にとって初めての場所だったにもかかわらず、誰1人として「命綱」とも言える地形図を持っていなかったことです。

前にも話したように、登山地図というものはコースタイムや施設などの情報が細かく記されていて、便利なのですが、縮尺が粗い場合がほとんどで地形を見るには不適当です。
ですから、山に行くときは登山地図がある場合は登山地図と地形図を併用することが望ましく、さらに今ではネットで山行記録を調べれば、さらに詳細な情報を事前に得ることすらできるのです。

それでも、道が完全に整備され道標も完備されているハイキングコースや、アルプスの主要ルートなどでは、登山地図だけでも行けてしまうものです。

しかし、道が分かりにくく「ルートファインディング」の能力が必要となるような場所では地形図なしに行動することは、まずあり得ません。
特に道に迷った場合に地形図がなければ、リカバーや危険の回避は、ほとんど不可能と言えるでしょう。

それなのに一行が持っていたのは登山地図のカラーコピーだけ。
元々、詳細な地形が分かりにくい登山地図だというのに、コピーしたために等高線は薄れるなどして、さらに見づらくなり、ほとんど「概念図」程度の、役に立たないものだったのです。

既に話した通り、そのコピーの登山地図にも「迷(いやすい地点)」の印が、これから進む先の道に付けられていて、こうしたもろもろのことを合わせて考えると、サオラ峠の分かれ道が運命の分かれ道になり得ることは常識的には予想されてしかるべきだったと思います。

何度も言うように、疲れによって冷静な判断力が鈍ってしまっていたのか、ケガをしている仲間がいてもなお夕暮れに向けて難度の高いルートに踏み込んでいくほど自分たちの体力を過信していたのか-。
「魔が差したとしか言えない」とメンバーは語ってくれますが、やはり理解に苦しむことに変わりありません。

そうして一行は、さらに幾つものミスを積み重ねて、暗くなった谷底で起きた悲劇へと導かれていきました。