万博といえば、名古屋の人が思い浮かべるのは5年前に開かれた「モリゾー」「キッコロ」の「愛知万博」なのでしょうが、私にとっては「1970年のコンニチハ」と歌われた「大阪万博」です。
私は当時は大阪市内に住んでいて、万博には家族と一緒に行ったり、小学校の遠足で行ったりと4、5回は足を運びました。
国や企業が多くの展示館「パビリオン」を出し、パビリオンを訪れる際に専用の帳面にスタンプを押してもらう一種のスタンプラリーを楽しみながら、いろんな展示を見て回りました。
スタンプの数を増やすには待ち時間なしで入館できるアフリカやアジアなどの「発展途上国」のパビリオンを選ぶのが効率的でした。
このころ世界の国はまだ、国連加盟国が120カ国余りで、万博に参加したのは77カ国。
万博があったためか私はすべての国の首都名を覚えていたこともあって、小さな国のパビリオンにも愛着がわいたものですが、人気を二分していたのは何と言っても「アメリカ館」と「ソ連館」。
アメリカ館には「アポロ11号」が持ち帰った「月の石」が、そしてソ連館には宇宙船「ソユーズ」の実物がそれぞれ展示され、宇宙開発でも、しのぎを削っていた東西の大国が、ここでも人気を争っていたのです。
とはいえ、より人気が高かったのはアメリカ館で、いつも長蛇の列に囲まれて2、3時間以上もの待ち時間があり、私は結局、待ち時間の少ないソ連館しか訪れることができませんでした。
前置きが長くなりましたが、その「大阪万博の頃」の私の写真が、あちこちの雑誌で大きく掲載されていると、数日前以来、いろんな人から言われました。
世間で名が知れている兄とのツーショットが、見開きの広告ページで紹介されているというのです。
以前にも、同じようなことがあって「付け足しとはいえ、オレの肖像権は軽んじられているよなあ」と嘆いたものですが、今回は最初に広告の話を聞いた明くる日に電話がありました。
「おれや」という、うれしそうな調子の声は初め、違った人のように聞こえましたが、兄本人でした。
「昔の写真を使わしてもろたで。懐かしいころの、ええ写真やで」
既に掲載されてしまってから求められた事後承諾ですから、返事も何もあったものではありません。
仕方なく雑誌を入手して、もちろん勝手に、ブログのネタにさせてもらうことにいたしました。
私と兄のツーショットが掲載されている雑誌は複数あるようですが、最初に聞いたのは「週刊文春」。
9月16日号の真ん中の見開きが問題の広告でしたが、残念ながら既に店頭には23日号が並んでいます。
そして駆けっこ仲間の「ジダン」さんがメールで教えてくれたのは「日経トレンディ」の10月号(左)。
こちらは今も店頭にあって、雑誌の版が大きめなため、写真も一回り大きくなっています。
ツーショットの写真は、兄も私もサンダル履きでしゃがんで、楽しそうに歯を見せて笑っている場面(中央)。
2人が着ている、おそろいのセーターは母が「編み機」で手づくりしてくれたもの。
写真は、往年の名機「リコーフレックス」や「オリンパスペンF」を使い私たちの成長を記録してくれていた父がそのいずれかで撮ってくれたものだと思います。
「面影がある」「一目で分かる」「今と一緒じゃないか」
40年前の写真を見た人たちに、そんな風に言われるのは、複雑な思いがします。
半世紀近くたっても自分は、あまり成長できなかったのではないかという風に感じるからです。
でも、近所の人たちから「嫌なことがあっても郁ちゃんの顔を見たら、笑ろうてしまうわ」と言われていたという子ども時代の私の顔は、確かに「おもろい」です。
でも、それって、今も「おもろい」ばかりの顔ってことなんでしょうか…。
さて、私たちの写真が撮られた場所は、大阪市住吉区(現在は住之江区)にあった自宅の前。
その家は戦後間もなく建てられた木造の市営住宅で、ずっと前に団地に建て替えられ、今はありません。
家の前の道は未舗装で、父はその地面を掘り返して花壇のほかに、川で捕ってきたフナや金魚を泳がせる池までつくっていました。
私たちの背後に横たわる木は毛虫が大量発生するなどして伐採された柳ですが、その以前には何度となく木登りをして遊んだ懐かしい木。
一番向こうに見える「住吉商業高校」は、塀を乗り越えて「探険」に出かける、やはり遊びのフィールドでした。
そして私は子どものころ、暮らしはつつましくても、土にも自然にも恵まれていたこんな場所で、2年上の兄の友だちとも一緒に、日が暮れるまで遊ぶ毎日を過ごしたものでした。
いやいや、図らずも昔の姿をさらすことになりましたが、懐かしい写真は、いつまでも見飽きないものです。
そうそう、既にブログに生でも登場している兄ですが、今回は雑誌の写真を活用して再度ご紹介します(右)。
私は当時は大阪市内に住んでいて、万博には家族と一緒に行ったり、小学校の遠足で行ったりと4、5回は足を運びました。
国や企業が多くの展示館「パビリオン」を出し、パビリオンを訪れる際に専用の帳面にスタンプを押してもらう一種のスタンプラリーを楽しみながら、いろんな展示を見て回りました。
スタンプの数を増やすには待ち時間なしで入館できるアフリカやアジアなどの「発展途上国」のパビリオンを選ぶのが効率的でした。
このころ世界の国はまだ、国連加盟国が120カ国余りで、万博に参加したのは77カ国。
万博があったためか私はすべての国の首都名を覚えていたこともあって、小さな国のパビリオンにも愛着がわいたものですが、人気を二分していたのは何と言っても「アメリカ館」と「ソ連館」。
アメリカ館には「アポロ11号」が持ち帰った「月の石」が、そしてソ連館には宇宙船「ソユーズ」の実物がそれぞれ展示され、宇宙開発でも、しのぎを削っていた東西の大国が、ここでも人気を争っていたのです。
とはいえ、より人気が高かったのはアメリカ館で、いつも長蛇の列に囲まれて2、3時間以上もの待ち時間があり、私は結局、待ち時間の少ないソ連館しか訪れることができませんでした。
前置きが長くなりましたが、その「大阪万博の頃」の私の写真が、あちこちの雑誌で大きく掲載されていると、数日前以来、いろんな人から言われました。
世間で名が知れている兄とのツーショットが、見開きの広告ページで紹介されているというのです。
以前にも、同じようなことがあって「付け足しとはいえ、オレの肖像権は軽んじられているよなあ」と嘆いたものですが、今回は最初に広告の話を聞いた明くる日に電話がありました。
「おれや」という、うれしそうな調子の声は初め、違った人のように聞こえましたが、兄本人でした。
「昔の写真を使わしてもろたで。懐かしいころの、ええ写真やで」
既に掲載されてしまってから求められた事後承諾ですから、返事も何もあったものではありません。
仕方なく雑誌を入手して、もちろん勝手に、ブログのネタにさせてもらうことにいたしました。
私と兄のツーショットが掲載されている雑誌は複数あるようですが、最初に聞いたのは「週刊文春」。
9月16日号の真ん中の見開きが問題の広告でしたが、残念ながら既に店頭には23日号が並んでいます。
そして駆けっこ仲間の「ジダン」さんがメールで教えてくれたのは「日経トレンディ」の10月号(左)。
こちらは今も店頭にあって、雑誌の版が大きめなため、写真も一回り大きくなっています。
ツーショットの写真は、兄も私もサンダル履きでしゃがんで、楽しそうに歯を見せて笑っている場面(中央)。
2人が着ている、おそろいのセーターは母が「編み機」で手づくりしてくれたもの。
写真は、往年の名機「リコーフレックス」や「オリンパスペンF」を使い私たちの成長を記録してくれていた父がそのいずれかで撮ってくれたものだと思います。
「面影がある」「一目で分かる」「今と一緒じゃないか」
40年前の写真を見た人たちに、そんな風に言われるのは、複雑な思いがします。
半世紀近くたっても自分は、あまり成長できなかったのではないかという風に感じるからです。
でも、近所の人たちから「嫌なことがあっても郁ちゃんの顔を見たら、笑ろうてしまうわ」と言われていたという子ども時代の私の顔は、確かに「おもろい」です。
でも、それって、今も「おもろい」ばかりの顔ってことなんでしょうか…。
さて、私たちの写真が撮られた場所は、大阪市住吉区(現在は住之江区)にあった自宅の前。
その家は戦後間もなく建てられた木造の市営住宅で、ずっと前に団地に建て替えられ、今はありません。
家の前の道は未舗装で、父はその地面を掘り返して花壇のほかに、川で捕ってきたフナや金魚を泳がせる池までつくっていました。
私たちの背後に横たわる木は毛虫が大量発生するなどして伐採された柳ですが、その以前には何度となく木登りをして遊んだ懐かしい木。
一番向こうに見える「住吉商業高校」は、塀を乗り越えて「探険」に出かける、やはり遊びのフィールドでした。
そして私は子どものころ、暮らしはつつましくても、土にも自然にも恵まれていたこんな場所で、2年上の兄の友だちとも一緒に、日が暮れるまで遊ぶ毎日を過ごしたものでした。
いやいや、図らずも昔の姿をさらすことになりましたが、懐かしい写真は、いつまでも見飽きないものです。
そうそう、既にブログに生でも登場している兄ですが、今回は雑誌の写真を活用して再度ご紹介します(右)。
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