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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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お堀ばた、せみ時雨

本日は朝からの仕事が夜中まで延びて記事のアップが遅くなりましたが、そんなことは予想もしていなかったものの昼休みに撮っていた写真を掲載します。名古屋城のお堀ばたで撮ったセミなどの写真です。

仕事が忙しいときはもちろん、そうでなくても真夏の屋外に出るのがおっくうになる、このごろなどは、昼食を職場が間借りしている会社内の社食で済ませてしまうことが多くなりますが、本日は意を決して炎天下に飛び出し、外で食事をすることにしました。

大きな外食業者が入っている社食では、食事のバリエーションがさほど多くなく、味もいわゆる「できあい」で「可もなし不可もなし」なものが多くて、食事を「楽しむ」というより「済ませる」ような感じになります。
サンプルを並べたショーウインドーの前で「食べるものがないよなあ」と思うと、同じ言葉が近くにいて腕組みしている社員の方の口から聞こえてくることもあります。

年を重ね、あと何度食べられるか分からない貴重な食事を、毎日「済ませて」ばかりでいるのは、寂しくなりもして本日は、日本一暑いと思えるほどの名古屋の真夏の真昼に徒歩で繰り出したのです。
とはいっても私が外で昼食をとる店のバリエーションはわずかで、たいていはカレーうどんの名店「おか茂」かブラジル料理のビュッフェをしている「プラネタグリル」の2つ。
本日は、そのうちエスニックで昼から野菜をたっぷり食べられるブラジル料理をいただきました。

でもネタは食事ではなく、職場を出てすぐの名古屋城の外堀ばたで降り注いでいた「せみ時雨」です。

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真夏の昼下がりに屋外に出ると、熱気が身体にまとわりつき、日差しが肌に痛く感じるほど。
名古屋城の外堀の内側にある職場を出て、水のない堀を渡る手前の土手まで来ると、せみ時雨が降り注ぎます。
見上げると、春に満開の花が空を明るくさせた桜の木は、濃い緑の葉を繁らせ、その合間から正視できないほどまぶしい太陽が見えます(中央)。

無数のセミが大合唱している場所では、地中から出てきたセミの抜け殻も近くにあるはずですので、そばの植え込みの地上から50センチほどのところに目をやると、すぐに抜け殻がみつかりました(右)。
空蝉(うつせみ=抜け殻)の姿は、セミと似ていなくもありませんが、それでもやはり脱皮して幼虫から成虫になるのは大変身です。
身も心も過去の上に積み重ねていくことしかない人間から見ると、すっぱりと変身できるのは、うらやましくもあります。

抜け殻が見つかるのなら、セミだって見つかるはず。
桜の木の枝を見渡すと、やはりほどなく1匹のアブラゼミが目にとまりました(左)。
1枚、2枚と次々にシャッターを切りながら、土手を上ると、セミまで数メートルのところまで近づくことができ、木漏れ日を受ける逆光になったため弱くストロボを当てて枝にしがみつくセミをおさえました。

セミといえば先日、トライアスロンに出た静岡の沼津からの帰路、東名高速道路の浜名湖サービスエリアに立ち寄ったときのことです。
湖畔の林に面した歩道を歩いていたところ、背後でパサッと何かが地面に落ちる音が聞こえて、振り返ると、駐車場に続く車道の上で1匹のセミがもがいていました。

次々に入ってくる車にセミがひかれるのにまかせるのは、しのびないと思って引き返し、車をさえぎって指を差し出すと、セミはしがみついてきました。
視線が合ったセミの目は、ものがなしそうで、ものほしそうに見えましたが、何もあげるものはありませんし、車で名古屋の自宅に連れ帰っても、うちのニャンコにいたぶられるだけです。

仕方がなく、林と歩道を隔てるコンクリートべいの上に覆い被さる木の枝に、セミを止まらせようとしましたが、力のないセミは、すぐに下に落ちてしまいました。
そう、木から落ちてくるぐらいですから、そのセミは既に短い命が尽きようとしているところだったようです。

何年もの間を地中で暮らし、地上に出て変身をとげたかと思えば、わずか1週間で命が尽きてしまうセミ。
樹液を吸い、やかましいほどのボリュームで鳴き続け、子孫を残すだけのセミの生命に、いったい何の意味があるのかとも思いますが、それを言えば、うちのニャンコや私自身の一生だって、どれだけの意味があるのかなど分かったものじゃありません。

始まりと終わりがあり、その間を歩き・走り続けるという点では、虫の命も人間の命も何ら変わりがないような気もしますし、終わってみれば一夜の夢のような命であっても、それが生まれ、存在すること自体が、どんな命であれ、やはり奇跡であって貴重なのだと思います。

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