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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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5日目も大盛況!

写真展「走った!撮った!世界のマラソンOSAKA」は5日目も大盛況となり、多くの再会や出会いに恵まれました。写真も記事も、追って加えます。

そして、ようやく写真展が無事に終了してからとなりましたが、ここから記事を加えていきます。

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5日目に来場してくれた多くの友人・知人の中で、まず紹介するのは、私の会社の大阪支社で部長を務めてられる雅紀さん(中央)。

昼休みを利用していらした雅紀さんは、実は去年2月に東京・銀座で開いた写真展の際も来場してくれるなどで大いに応援してくださいました。
今回の展示写真の大部分は前回と同じものであることから、銀座-大阪と続けて来場してくれる方々には、申し訳ない思いがあるのですが、それでも雅紀さんは、新作となるパリや去年の東京の写真などを楽しげに見てくださいました。

続いては、関西明走会のトレイルランナー、きのっぴさん(左)。
今年6月に京都府の日本海岸にある小浜から京都市の出町柳まで、3つの峠を越えて走る「鯖街道ウルトラマラソン」を私や、やはり関西明走会のメンバーで、トレランサークルの「チームジダン」を率いるジダンさんとともに完走したのに続き、先日はついに大目標だったフランスの「ウルトラトレイル・デュ・モンブラン」も見事に完走されました。

この日は、仕事場がギャラリーの近くにあることから、昼休みに来場してくれたきのっぴさんご本人もヘビーなブロガーで、写真好きですが、展示写真をじっくりと見てくださったうえ「どの写真も、伝えたいことが伝わってきて、すばらしい」などと、おっしゃっていただけて、光栄です。

きのっぴさんと一緒に出掛けた「鯖街道」の前夜、宿舎で夕食をとっている際に知り合い、当日には途中まで一緒に走らせてもらった美人ランナーの千里さんは、仕事を半日休んで駆けつけてくれました(右)。

「あのときも、楽しそうに応援の人たちを撮ってられましたよね」と思い出してくれた千里さんは、2日前に参加した大阪と奈良にまたがる生駒山のトレイルランニング大会でジダンさんと偶然に再会し、そのときにジダンさんから強く勧められて来場を決めてくれたとのこと。
そもそも、鯖街道前夜に千里さんに最初に声をかけたのもジダンさんで、彼は千里さんとの出会いも再会も仕立ててくれたキューピッドというわけです。

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故郷の大阪で開く写真展とあって、会場には中学・高校の同級生が次々と訪れてくれましたが、この日、久々の再会を果たすことができたのは、出版社に勤められている美人編集者の幸さん(左)。
幸さんの勤務先の出版社は、これまで多くの写真集も手掛けていることもあって、幸さんは「これは本には、せえへんの?」と言ってくれました。

「走った!撮った!」の写真を印刷物にするかどうかは、去年の写真展以来の「宿題」でもあるのですが、いったん持ち上がった話が頓挫するなどしたうえ、その後も新たな写真展を開くなどして忙しかったことから、いまだに宿題のままです。

私の写真は、応援してくれる人などを面と向かって撮らせてもらっていることから、入場無料の写真展で公開することは問題がないと思われますし、実際に東京マラソンの写真などで写ってくれた方々のうち、そのことを知った方はみな大喜びしてくれます。
しかし、これを有料の出版物にする場合には、肖像権の問題を考えたうえ、それをある程度クリアにする必要があるとも思います。

その点について、これまで私がおぼろげに考えていたのは、例えば写真集などができた場合には、被写体になってくれた方には無料でプレゼントすることや、売り上げの一部を大震災の被災地に寄付するといったアイデアです。
ところが、幸さんによると、彼女の出版社でも最近、お祭りをテーマにした写真集を出して、やはり被写体の人たちに写真をプレゼントすることにしたところ、大好評だったとのこと。
やはり、この時代、見知らぬ人を写真に撮らせてもらうには、同じような問題が生じるということですが、同じようなアイデアが既に採用されていたとは奇遇でした。

プロの写真家さんたちが撮る作品すらも、知らない人を隠し撮りするような写真が多くなってきているなかで、面と向かって撮影を断っているうえ、自然な表情を撮らせてもらえ、さらには被写体のみなさんに喜んでもらえるという撮影現場としてのマラソンコースは、ほかには滅多にない最高の場所だということを実感してきていいます。
ですから、マラソンの写真については、そうした問題は比較的容易にクリアできるものと思われます。

とはいえ、幸さんの言葉は、仕事絡みの「あいさつ」のようなものだと思っていたのですが、なんと翌日には、出版社の社長さんも来場してくれて、「今後、ご相談させてください」と、さらに現実的なごあいさつまで、いただきました。
世の中の多くの物事が人の縁(韓国語では「因縁=イニョン」)で動いているのだという思いを、ますます強くしている私としては、こんな縁が芽を吹いてくれるなら、そんな物事の流れに身を任せるしかないような気がしています。

中学・高校の同窓生としては、何年か下の期の卒業生で、ランナーの潤さんも、職場の同僚らを連れて来場してくれました(中央、潤さんは私の隣)。
潤さんは、大学時代に就職先を「人を直接、相手にする仕事」としてマスコミと教職に限っていた私が、母校に教育実習に行った際、担当した学年の在校生でした。

そして、同級生の中でも当時からの親友で、去年の写真展には家族で来場してくれ、今は中国に赴任されている一郎さんのご両親も来場してくれました(右)。
お2人ともに、仕事などでの海外経験を豊富にお持ちで、かつて訪れた各国の都市で撮った写真の数々を、時間をかけて、懐かしそうに、じっくりと見ていただきました。

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3日目に大挙して来場してくれたジダンさん率いるチームジダンの美女ランナー軍団ですが、この日も閉館の午後6時近くになって、お2人がご来場(右)。
この日も結局のところ、来場してくれる人たちが、ほぼ途切れないままでした(左)。

閉館間際に来場してくれたのは、長らくお会いしていなかった親戚の陽子さんと忠宏さんのご夫妻(中央)。
大阪・豊中市内で美術・工芸品の展示会やライブ演奏会などを開く「スペース草(そう)」を運営されています。
http://www7a.biglobe.ne.jp/space-so/information.htm

忠宏さんは木工作家で、閉館後、ギャラリーの近くで自ら内装を手がけられた日本酒と創作料理のお洒落な店や、昭和の香りを残すレトロなバーに、ハシゴして連れて行ってくださいました。
実は、30年ほどもお会いしていないお2人との楽しい飲み会には、仕事を半日休んで日中に来てくれた美人ランナーの千里さんも合流してくれました。

互いに初対面である自分の友人・知人同士を、自らの都合で引き合わせてしまう私の、いけないクセがまた出てしまったということですが、長年お会いしていなかった陽子さんも、お会いするのが、たった2度目の千里さんも、毎日会っている人たちのように私を含めてみなが打ち解けることができた、なんとも不思議で愉快な夜となりました。

※※※

ここからは、しばらく経った後に書き加えています。
陽子さんと最初にお会いした30年以上も前の話を少しばかり書いておきます。

私が陽子さんとお会いしたのは、私が大学浪人をしていた10代の後半の夏のことでした。
志望していた国立大学に落ちた私は、京都にある予備校に入っていましたが、あまり真面目な予備校生ではなく、そのためもあって同じ大学に2年続けて落ちた挙げ句、志望大学の近くにある私立の大学に入ることになりました。

その不真面目な浪人生だった夏、私は金沢に住んでいた伯母が営んでいた、お洒落な工芸品を扱う小さな店の店番を手伝いに行くという名目で、1カ月ほどの間、伯母の家に居候をしました。
その間も予備校の授業はあったはずですが、どうやら私をそれをさぼって逃げ出したのだったと思います。
避暑と気分転換、それにちょっとした社会勉強もできると目論んだ私は、そうして猛暑の大阪・京都を脱出し、一夏の「プチ親離れ」をして金沢の町に向かいました。

私は両親がともに石川県出身です。母の実家は歌舞伎の「勧進帳」の舞台となった「安宅の関」がある小松市安宅町の郵便局。父の実家は隣町の片山津です。
母の姉である伯母には3人の男の子がいて、そのいとこの末っ子が私と兄の間の年、真ん中が兄の1つ上と年齢が近かったこともあり、私と兄は子どものころ、夏休みごとに母の実家や伯母の家を両親と一緒に訪ね、いとこたちと「5人兄弟」のように仲良く遊んだものです。
(23日の記事で紹介いているユウタさんは、一番上のいとこのお子さまです。)
ですから伯母の家は、私にとって敷居も低い感じがして、鬱々とした浪人生としての夏を過ごすには、もってこいの場所だったというわけです。

どうせ居候に来るなら、少しは仕事を手伝ってほしいと頼まれた私は、毎日のように「出勤して」、伯母が用事のために店に行けない日や時間には独りで店番をして、接客や商品の包装、販売をこなすこともありました。
そして、私と同じように店の手伝いをしていたのが、伯母の義理の弟の娘さんに当たる陽子さんでした。
つまり、陽子さんは私からいうと「いとこのいとこ」ということになります。

当時は独身で20代後半だった陽子さんは、結婚の適齢期がまだ20代半ばとされていたことから、ご自身のことを「私も『結婚浪人』なのよ」と言われていましたが、とても魅力的で、寂しい浪人生だった私にとっては、目もくらむような存在でした。
そんな陽子さんが、ときには私と2人で店番をしてくれることもあったものですから、私の居候生活は、一気に張りのあるものになり、毎朝ウキウキとしながら店に出掛けることができました。

叔母の店は金沢市の中心部にありましたが、表通りから少し中に入った小さな商店街の一角にありました。
地元の陶芸作家がつくった現代風の九谷焼のうつわや、ユニークな日常雑貨を手がけるデザイナー・柳宗理さんの食器、北欧から輸入された木の玩具などツウ好みの商品が並ぶ店は、昔ながらの店ばかりの商店街にあって、異色の存在で、お客は決して多くはありませんでした。

「せっかくの浪人時代なのだから受験勉強ばかりでなく、その後の人生に役立つ勉強をしたい」
そんなふうに格好をつけて考えていた私は、英語の時事雑誌である「タイム」や「ニューズウイーク」などを、英英辞書を引きながら読んだり、受験では必要がないような歴史の本などを読んだりするなど、脱線ばかりの「勉強」を、店番の合間にしていました。

しかし、結局はあまり受験の足しにならなかったそんな勉強をする時間よりも、陽子さんと一緒に店番をして、話の相手をしてもらう時間の方が100倍も楽しく感じました。
お昼どきには、商店街にあるコロッケ屋さんやパン屋さんに買い出しに行っては、アツアツのコロッケなどを店の奥でほおばるのですが、ただでさえ美味しいコロッケは、陽子さんと一緒にいただくと、一段と美味しく感じました。

つまり陽子さんは私にとって、暗い浪人生の日々を華やがせてくれる「あこがれのお姉さん」だったのです。

中学時代から山に登っていた私ですが、さすがに浪人時代に山歩きに出かけるのは、はばかられました。
そんな話をしていたこともあってか、会社勤めなどをした後、北アルプスの剱岳近くにる山小屋で住み込みのアルバイトをしていたという陽子さんは、ある日、その小屋に用事があるので「一緒に行ってくれない?」と、私を誘ってくれました。

もちろん私は跳び上がって喜び、実家に頼み込んで、登山靴やリュックなど、封印してあった山用品の一式を叔母の家に送ってもらって、その日に備えました。

そして私は夏の終わりごろのその日、陽子さんが運転する車の助手席に乗って剱岳の小屋に向かいました。
今は自家用車で入れない立山アルペンルートの「室堂」から峠を越えて山小屋に向かったのは午後の遅い時間。
私たちは、ガスに包まれて四方がミルキーホワイトになった中、石だらけで「ガレた」登山道を歩きました。

登山道のわきには高山植物が咲いていたはずですし、ライチョウが道を横切ったような気もしますが、それらの記憶はあまりありません。陽子さんと一緒に山歩きをしていることに夢中だったのでしょう。

たしか、その道すがらだったと思いますが、陽子さんは山小屋に行く用事の内容を話してくれました。
それは、山小屋で働いていたときに知り合った忠宏さんと結婚することを決めて、お世話になった山小屋のご主人らにあいさつをするということでした。
忠宏さんの方は、そのときにまだ小屋で働いてられたのか、先に到着してられたのか、とにかく陽子さんとは一緒に行くことができなかったのです。

あこがれのお姉さんが、「大学浪人」の私よりも先に「結婚浪人」の生活を抜け出すと聞いて、私はショックを受けたように覚えています。

山小屋での滞在は1泊だけで、陽子さんにコブのように着いて行った私は、ここでも居候をさせてもらったのですが、「お世話になるだけじゃダメだから、少しは小屋の仕事を手伝いなさい」と陽子さんに言われて、夕食の後には食器洗いを手伝わせてもらいました。

雪渓から流れ出たばかりだったのか、氷よりも冷たく感じた山小屋の水で、手の指は感覚がなくなりました。
また、それに先立つ食事でいただいたアザミの天ぷらやタマネギとハムのサラダが、とても美味しかったことが今でも思い出されます。

山小屋では、忠宏さんにもごあいさつしたはずですが、複雑な思いを抱えた私は、きちんとしたあいさつが、できなかったように思います。

翌日の日中、「お邪魔虫」となった私は独りで小屋から剱岳の山頂までを往復しました。
岩場が連続する剱岳の登山道は一般の登山者にとって相当、難易度が高く、ある程度の危険も伴いますが、私は多くの登山者を次々にかわして、猛スピードで駆け抜けました。

あっという間に山小屋に戻ってきた私を見て、小屋の人の中には「もっと、じっくり登って山を楽しまなければダメだ」と言う人もいれば、「若いときは、あんな登り方をしたっていいんだ」と言ってくれた人もいたということでした。

私としてはもちろん、あこがれのお姉さんに対して抱いていた淡い恋心のような気持ちが、あっさりと砕かれ、それを吹っ切ろうとして頑張ったような気もしますし、早く戻ってきて、また陽子さんと一緒に山道を下りたいと思っていたのかもしれません。

金沢の叔母の家に戻って間もなく、私は「夏休み」を終えて、大阪に戻りました。
その前日、年の近い従兄2人は家で、ささやかなお別れ会を開いてくれました。
私が陽子さんを、あこがれていたことなどを分かっていた従兄たちは、「とにかく飲め、飲め」と言って、未成年だったはずの私に、さんざんお酒をすすめてくれました。

小学校のころからお酒をいただき、親戚の間でも「酒飲みの子ども」として知られていた私は、当時から、それなりに飲めたはずですが、このときばかりは意識が薄れるほどにいただきました。
私たちは、叔母が用意しれくれた夕食や「つまみ」をたいらげた後は煮干しをかじりながら飲んで、ビールや日本酒を飲み干すと、台所のシンク下にあった焼酎の1升びんを持ってくるなどして、さらに浴びるように飲みました。
従兄たちも、私につき合って、まさに「痛飲」をしてくれたわけでした。

※※※

そんな陽子さんとはその後、親戚の不孝があった際にお会いするぐらいで、長らく年賀状を交換させていただきながら、それだけに終わっていました。
それが、こんなふうに忠宏さんも一緒にお会いできる機会をつくることができたのは、まさに写真展のおかげで、会期中に数多くあった再会の中でも、最も楽しい再会となりました。

私が山小屋に行った際に「あの男の子、何ものなんや」と陽子さんにたずねたという忠宏さんは今回も「何を話ししたらええんか分からへん」とおっしゃっていたということですが、とてもすてきなオジさまで、むしろ話が尽きないほどでした。

美味しいお酒を飲みながら、忠宏さんに意見していただいたのは、私が会場で来場してくれた方々に話していたちょっとした言葉についてでした。

「私の写真は、芸術的な作家先生方の写真とは違って、ただのスナップです。それも、『体育会系』のもので、見にきていただいて恐縮です」
そんなふうに私はヘンに、へりくだって言っていたのですが、忠宏さんは「あんなふうに言うのは、来てくれる人に対して失礼や」と一喝してくれたのです。

まさに心の中を見透かされたような感じで、実は私自身も、美しさや自身の感情を表現するような芸術写真と、私が撮る、ときにジャーナリスティックで、自分も含めた人と人との関係を撮す写真が違うことは分かっていても、こちらが「下」だなどとは思っておらず「こちらの方も、おもしろい」と胸を張って言える自信があります。

それなら単純に、そう言えばいいだけで、ヘンにへりくだってみせるのは、相手にとって失礼なばかりか、ヘンに格好をつけているようにも見えるのだと思います。

そういえば同じような言葉を、つい口にしてしまった際、来場者の1人から言葉を返されたこともありました。
トレーニングウエアに身を包んで、汗びっしょりで現れたその男性は、フラメンコを学び教えている方で、私の写真を、じっくりと楽しそうに見てくれました。

「芸術って、人間が人間らしく行うこと、すべてが芸術なんですよ。人が生きていることだけで芸術なんです。これらの写真も、もちろん芸術ですし、私にとっては辰巳さんの存在自体が、すごい芸術です」
忠宏さんの言葉と同じく、「やられた」と思った、胸に残る言葉でした。

2軒目の店で、カウンターに座って飲んでいた際、私は、つい酔っ払った勢いもあって、美人のウエイトレスにカメラを向け、シャッターを切ろうとしたその時、今度は陽子さんから、おしかりを受けました。

「郁ちゃん、つい撮りたくなるのは分かるけど、ちゃんと断ってから撮りなさい」
これも全くその通りで、私は赤面して、一瞬お酒がさめていくような気がしました。
マラソンを走るときも、街で人を撮るときも、できるだけ声をかけて撮らせていただいている私ですが、写真展を開かせてもらったぐらいで、おごりのような気持ちが芽生え、「何でも撮って良い」といった錯覚をもち始めていたようなのです。

ほぼ30年ぶりでお会いした私に対して、そんなふうにモノをおっしゃってくれる陽子さんも忠宏さんも、私が、かつてあこがれたお姉さんと、そのご主人とあって、すばらしい方々なんだと実感しました。

そして、そんなやりとりや、私が上に書いたような他愛もない昔話などを、楽しげに聞いてくれた上、話の輪に自然に入ってくれた千里さんにも、とても感謝しています。

人と人とを引き合わせるランニングや写真の力を、またまた実感した、楽しい夜の長い長い話でした。

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