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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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童仙房ツーリング

東京夢舞いマラソンの写真を再び掲載し始めたところでしたが、さらに続ける前に先月のネタを1つ掲載し忘れていることを思い出し、またまた夢舞いを中断して割り込ませることにしました。

そのネタは先月22日に大阪府枚方市から京都府南部の木津川沿いや丘陵地帯の100キロ余りをバイク(自転車)で走ったロングツーリング。両手がふさがっているバイクですから、途中で撮った写真はわずかで、出来もイマイチのものばかりです。しかし、目的地とした高原の上にある明治時代に開拓地だった集落は、私が中学時代以来、何度か訪れた懐かしい場所でもあり、その話も書き加えたいという気持ちもあって、報告を掲載することにしました。といっても、またまた「とりあえず写真のみ」のアップなのですが。

BL121022童仙房ツーリング1IMG_0141  BL121022童仙房ツーリング2IMG_0148  BL121022童仙房ツーリング3IMG_0160

さて、うかうかしていると記事がトップページから消えてしまいそうで、写真説明などを、ようやく追加することにします。

この日ツーリングの目的地としたのは、京都府南部、南山城村の標高500メートル内外の高原にある童仙房(どうせんぼう)という地区。人口約250人で、お茶や米のほか、冷涼な気候を利用してトマトやブルーベリーの栽培などが細々と行われている過疎地の集落です。

中学時代から地形図を眺めたり、地図で見つけた、おもしろそうな山や土地をほっつき歩いたりするのが好きだった私は、周辺の町から隔絶された山の上に広がる童仙房に心をひかれ、この地の成り立ちを調べることを中3の夏休みの自由研究でテーマとして選び、現地を何度か訪ねました。

童仙房に興味を持ったのは、なぜこんな山の中に人々が暮らすようになったのかという疑問に加えて、地区内にある「一番」「二番」~「九番」というふうにナンバリングされたような地名がナゾだったからです。
今ならインターネットで調べれば、そんな疑問やナゾはすぐに明らかになるのですが、まだまだアナログ時代だった当時、私はまず現地を訪ねて地元の人に話を聞いたり、図書館で昔の資料をひっくり返したりしながら「研究」を進めることにしました。

その「成果」については後ほど続きを書くことにして、まず写真の説明をしますと、最初の2枚は童仙房に行き着くまでの途中に撮ったものです。

その1枚は淀川の支流、木津川に山から流れ込む京都府井手町の玉川の様子(左)。
上手に取れなかった写真ですが、クリックして大きくしていただけると、この川が向こう側に見えるJR奈良線の線路を「またいで」流れていることが分かります。そう、いわゆる「天井川」なのです。

天井川は、土砂がたまって川底が高くなった川が氾濫を繰り返し、その度に堤防をかさ上げしていった結果、川そのものが周囲よりも高いところを流れるようになったもので、琵琶湖の周辺などに多くありますが、木津川右岸のこのあたりの川も以前は軒並み天井川になっていて、これまで実際に見る機会は逸していたものの、中学時代から、この玉川を一度は訪れてみたいと、地図を見ながら思っていたのです。

さらに脱線しますと、山から何本もの川が小さな扇状地をつくりながら流れ出るこのあたりの川のうち、玉川に特にひかれたのは、やはり地名でした。
地形図には玉川沿いに「山吹山」「駒岩」といったいわくありげな地名が並んでいて、それだけでも心をひかれるのですが、さらにそれらの地名が大昔の和歌に詠まれていると知ったことから、地図を見ながら想像される風景が時間まで超えて広がるような感じがしたのです。

その和歌とは、鎌倉初期の「新古今和歌集」に収められた藤原俊成の「駒止めの歌」。次のような歌です。
「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川(馬を止めてもっと水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち加わった玉川の水を)」

今なおヤマブキの名所で、玉川の水が環境省指定の「名水百選」になっている井手町では、景色も水の清らかさも800年もの間、さほど変わらないままなのでしょうか。
玉川沿いの峠道で山を越え、井手町の隣にある和束町に抜ける道は、ほとんど車が通らず、ヤマブキの春ではないものの、昔のままの風がそよいでいるような感じがしました。

峠を越えて和束町に入ると、山の斜面には茶畑が広がります(中央)。
とはいっても、写真は天井川のものと同じくイマイチで、ヘタに前景を入れたことなどから肝心の茶畑を十分に強調できていません。

最初の峠も標高差が200メートル以上あって、相当にキツかったのですが、和束町から童仙房に入るには、さらに「ひと山」を越えていかなければなりません。
それもたんなる峠越えではなく、単純な標高差が450メートルほどあるうえ、数キロにわたる尾根伝いで上り下りを何度となく繰り返すハードな山岳コースなのです。

そして、ようやく2つ目の山も越えてたどり着いたのが、童仙房の中心部である「五番」の家並み(右)。
遠く35年ほど前に初めて訪れたときに見た景色と、さほど変わってはいませんでした。

BL121022童仙房ツーリング4IMG_0158  BL121022童仙房ツーリング5IMG_0155  BL121022童仙房ツーリング6IMG_0154

私が中学時代、初めて童仙房を訪れたときは、一緒に山に行っていた友人を誘って、最寄りの国鉄(現在のJR)笠置駅から谷川沿いの山道を、ヤブをかき分けるようにして登り、突然ぽっかりと視界が開けたところに集落が現れました。
童仙房と響きが似ていることもあって、昔の中国の詩人・陶淵明が描いた山の中の理想郷「桃源郷」が、そこにあるような気持ちになりました。

そのとき私たちは、神社の隣にあった民家を訪ねて、家の人に話を聞きながら、お茶や漬け物をいただいた記憶があるのですが、その場所にあったのが、ここだけは当時になかった立派な山小屋風の民宿(左)。
その前で自転車を止めて休憩していたところ、ちょうどいらした女性が、息子さんと一緒に民宿を切り盛りされているという、お母さま(中央)。

民宿は、ここにあった民家を建て直して建てられたということでしたので、中学時代にもお会いしていたと思われるお母さまは、この日はふかしたての美味しいサツマイモをごちそうしてくださいました(右)。
お母さまは、私が中学生のころに童仙房を訪れたことを伝えると、この地の歴史について「おさらい」をさせてくれるように再び話してくれました。その童仙房の歴史は、次の通りです。

「童仙房」の名前の由来は定かではないものの、6世紀後半、この地のふもとに住んでいた人々が寺院を建てようとしていたところ、天から降りてきたという子どもが、この地に建てるよう話して、すぐに消えたことから、ここに1000のお堂が建てられたという伝説が古い書物に記されています。

しかし江戸時代には、ここは未開の地となっていて、今日につながる歴史は明治になってからのものです。
そして明治元年、京都府が、この地を開拓する計画を策定し、3年がかりで新しい村がつくられました。
この「童仙房村」の開拓は当初、明治維新で地位と食いぶちを失った武士に職を与える「士族授産」の政策として計画されましたが、結局、へき地に移り住んで農業を営もうという武士はおらず、近隣の農民らが入植しました。その入植地が京都に近い場所から順に「一番」「二番」と名付けられて、今に至る地名ができたということです。

開拓当初、童仙房は京都南部の中心部として京都府の支庁や警察署、郵便局、小学校などが設けられて、入植者も約500人に達しましたが、木津川沿いに鉄道や道路などが整備されると、支庁などは木津(現在の木津市)に移ってしまい、ひっそりとした寒村への道を歩むことになりました。
戦後には第2次の入植が行われ、インフラの整備も進みましたが、交通が不便なことを改善するすべはなく、再び過疎の地域となっています。

こうした童仙房の歴史を調べた私の中3のときの自由研究は、興味深い内容だということで、夏休み明けにはクラス代表として全校で行われた発表会で発表をさせてもらうことになりました。

童仙房を初めて訪れた日は、民家に上がらせてもらったうえ、和束村へと下る途中ではヒッチハイクをして、お茶の葉を入れた大きな布袋を積んだトラックの荷台に乗せてもらって、フカフカの上等なベッドのような乗り心地を楽しみました。お土産に買った直径15センチ、長さ40センチほどの紙袋に入った産地直売・格安のほうじ茶は香り高く、今まで飲んだなかでも最も美味しいお茶でした。

その後、35年が経っても童仙房のたたずまいは何ら変わることがありません。
しかし、とびきり美味しいお茶の生産は今も続き、高原の気候を生かしたブルーベリーやトマト、それに花の栽培などが進んで、新しい地域おこしの努力が花咲いているようです。
また、私が立ち寄った民宿は息子さんが自らサイクリングをされていることから、自転車ツーリングの拠点のようになっているということで、車がほとんど通らない舗装路の山道を楽しめることもあって、童仙房は関西の「自転車乗り」に人気の場所になっているということです。

厳しく長い坂道を自転車の「ヒルクライム」で登って童仙房に訪れることなど、35年前の自分にとっては想像もつかなかったことですが、なんだか深い因縁を再び感じたこの地には、また訪れることになりそうです。

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さて、また長らくブランクがあきましたが、残る写真3枚の説明を簡単に。
童仙房からの帰りは木津川沿いのふもとにある大河原まで、ブレーキを握る手が痛くてしびれてしまうほどの急坂を一気に下り、その後は国道、サイクリングロードを通って枚方へと戻りました。

童仙房直下のJR笠置駅近くでは、木津川が渓谷のようになって深い渕をつくっています(左)。
私がワンゲル部に入るなどして山をほっつき歩いていた中学高校時代、2年上の兄は高校で演劇をしながら、カヌー部にも入って、このあたりで練習していたそうです。

サイクリングロードに入って玉川が合流するあたりまで戻って来ると、木津川の流れは緩やかになり、空には刷毛ではいたような絵のような雲が浮かんでいました(中央)。

そして最後に、ネコジャラシともいわれるエノコログサを前景にして撮った橋の骨組みのようなものは、知る人ぞ知る京都・八幡市の「流れ橋」(右)。
木造のこの橋は川が増水した際、橋げたの部分だけが流れに逆らわず、流されるようにできています。
大雨になると増水しやすい木津川にあって、補修の費用を節約しようという工夫で、欄干のない四万十川の沈下橋と、ちょっと似たアイデアによるものです。

現在は、近くに立派な橋ができたことから、この流れ橋は事実上、観光用になっているようですが、この日も、流れた橋げたを再び乗せてくみ上げる作業が進められていました。

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