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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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宮古島完走のあかし

「全日本トライアスロン宮古島大会」を完走した私は既に島を離れ、名古屋に戻っていますが、本日も宮古島のネタを掲載します。悪天候のためスイムがランに切り替わり「デュアスロン」になってしまった大会とはいえ、それに向けた準備も走っている時間も長い長いものでしたので、その余韻に浸る時間も少し引き延ばしても良いということにします。

そして本日紹介する写真は、宮古島完走のあかしとなる「完走シャツ」と「完走メダル」、それから当日撮ってもらった写真のうち紹介しそびれていたゴールを目前とした自分です。
完走のあかしといえば、その言葉通りに完走証をお見せしたいところですが、大会の翌日に配布してもらえたはずの完走証は、ゴールを果たして緊張感が解けたためか受け取ることを失念いていて、事務局から送ってもらっているところなのです。

BL130424宮古島完走シャツRIMG0714  BL130421宮古島フィニッシュ前RIMG0689  BL130424宮古島完走メダルRIMG0709

宮古島の完走シャツはTシャツではなくポロシャツで、背中いっぱいに南国の青い空、エメラルドグリーンの海、そしてハイビスカスの赤でゴールシーンを描いたデザイン(左)。
大会の愛称であり、完走者に贈られる称号でもある「ストロングマン」の文字が英語で書かれています。

シャツに描かれたランナーのガッツポーズよろしく両手を挙げて写真を撮ってもらったのはゴール会場である陸上競技場に戻ってきた私自身(中央)。
NAHAマラソンなどと同じく、制限時間はゴール地点の通過時間ではなく、競技場に入る際の時間とされているため、こうして気を緩めてポーズをとることも、まあ許されるわけです。

そして完走メダルは三角形のなかにすっぽり入る形となっている宮古島の地図をあしらい、その3辺の外側にスイム、バイク、ランの3種目に臨むトライアスリートの姿を加えたデザイン(右)。
首にかけるリボンもまた、ブルー、エメラルドグリーン、レッドの3色が基調となっています。

※※※

完走証は手元にありませんが、オフィシャルサイトで調べた大会の記録は次の通りです。
出走したトライアスリートは男女合わせて1470人、うち完走したのは1184人で、完走率は80.5%と過去最低。終日7メートルほどの強風が吹き、橋の上などでは猛烈な風となったことなどからバイクで177人もがリタイアしています。

3キロのスイムが約7キロの第1ランに置き換わり、制限時間は当初の13時間半から12時間半とされたなか、私の記録は12時間17分50秒で完走者1184人中1024位。50歳から54歳の127人中では115位。第1ランを合わせ計算されたバイク155キロのタイムは6時間50分52秒で、バイクだけの平均時速は2度のトイレ休憩などを含めてほぼ25キロ。フルマラソンのランは、着替え・休憩の15分近くを含めて5時間26分58秒でした。

※※※

私はかつて約15年前からの数年間、マラソンやクロスカントリースキーと平行してトライアスロンをしていた時期がありましたが、そのあと約10年のブランクがあり、再開したのはここ4、5年です。
以前トライアスロンをしていたころはマラソンで3時間を切るなど市民ランナーとして油がのっていて時期で、ショート(オリンピック・ディスタンス=スイム1.5キロ、バイク40キロ、ラン10キロ)の大会では今より20分ほど速い2時間37分台でフィニッシュしていました。
しかし、初めてロングの大会に挑戦した韓国・済州島でのアイアンマン・シリーズの大会で、濃霧で水温が極めて低い海でのスイムの途中、身の危険を感じてリタイアし、それ以後トライアスロンから遠ざかることになりました。

その後の私は100キロマラソンや富士登山競走に「脚を染める」のと平行して、東京マラソンを実現させるための東京夢舞いマラソンの活動に加わるとともに、海外マラソン巡りをしながら、その写真を撮りためてきて、それが、このブログでも紹介しているわが「駆けっこ人生」の、いわば軌跡のようなものです。
そして100キロで10時間を切り、富士登山競争をなんとか完走し、東京マラソンも実現して写真展も度々開いてきた私にとって、次なる挑戦として再浮上してきたのがロングのトライアスロンだったというわけです。

スイムやバイクといった、たんなる体力に加えて技術をも要求される種目が含まれることから、努力によって望める「伸びしろ」があるうえ、距離が長いことから、むしろ身体にはやさしく、マラソンなども含めた数多くの経験が生かせる余地もあるため、ロングの完走は50代からの挑戦にふさわしい目標のようにも思えました。
上半身も合わせて鍛えることによって身体の土台を築き直し、体調を良くしたり、ランニングの記録を再び伸ばすことにもつながるように思うことも、トライアスロンに復帰した理由でした。

※※※

今回のロング再挑戦は、あくまでも完走が目標でしたので、ハードルはそれほど高くは感じていませんでしたが、年齢を重ねるに従ってランニングの記録も思うように伸びず、疲労の蓄積や故障もしやすくなっているのを実感するなかで練習を進めるのは、それなりにしんどいものでした。

まずは2月初旬のマラソンに照準を合わせて昨年12月、今年1月と月間300キロの走り込みをしました。
しかし、マラソンでは後半つぶれて記録は3時間50分近くもかかるという目も当てられない結果でした。
2月からはバイクとスイムも本格的に練習をするつもりでしたが、マラソンの1週間後に、いきなり名古屋から大阪・枚方までのロングライドをした結果、ひどいカゼを引き込んでしまいました。
カゼがすっかり治りきらないうちから、だましだまし練習を続けはしましたが、結局のところ2月は中だるみの時期ということになってしまいました。

ただ振り返ると、その中だるみは身体をいったん休めてリセットするには悪くなかったようにも思います。
その反動もあってか3月にはラン約200キロ、バイク約900キロ、スイム20キロ以上という私にしては相当充実した練習を積むことができて、手応えも感じられ、完走のメドがたったように思えました。

※※※

しかし、道のりはまだまだ平坦ではありませんでした。
3月の練習の締めくくりとして名古屋から枚方まで約180キロのロングライドをこなし、さらに翌日、枚方から大阪市内まで30キロ走をした直後に、身体の変調が表面化したのです。

100キロを越えるロングライドを繰り返しこなしたことから、このときの180キロは余裕を持って走ることができ、まだ100キロぐらい乗れるように感じました。また30キロ走も、さほど脚へのダメージを感じないまま楽な気分でこなすことができました。
ところが、30キロを走って駆けつけた中学・高校時代の同窓会の席上、駆けつけでビールを腹に流し込んだ途端、目の前の景色が白っぽくぼやけていって、私はその場で崩れるように倒れ、1分ほどの間、気を失ってしまいました。

脱水症状によるものだったと思われますが、疲労や貧血なども加わっていたようでもあります。
その後、病院で検査を受けたところ白血球の数が低下したり「栄養失調状態」と言われたりして、急に量を増やした練習で、身体がダメージを受けていることが分かりました。
さらに、数週間以上にわたって息苦しさや上腹部の不快感が続いていたことから食道や胃の内視鏡検査も受けた結果、軽い「逆流性食道炎」を患っていることも判明しました。

体重が10年前と同程度まで落ち込み、体脂肪率もコンスタントに10%を切るようになっていたのは、練習の成果だけではなく、食道や胃の不調も原因だったというわけです。

※※※

ということで、練習の手応えを感じていた半面、大会直前の体調は、ほとんど最悪に近い状態だったのです。
おかげで1週間以上も大好きなお酒をほとんど抜くという数10年来したことのない摂生もできたのですが、大会の歓迎会に出ても、みなが筋肉隆々、自信満々で底抜けに明るい周囲の参加者のなかにいて、完全に気おされた状態になっていました。ですから、苦手なスイムが中止と決まった瞬間、がっくりとしたものの、心のどこかでホッとする気持ちもあったのです。

ただ、できるだけの摂生をして大会に臨めたこと、身体に問題を抱えていたことから無理をせず走ったことが幸いして、練習の成果を最大限に発揮することができ、さらに宮古島の人たちの盛大な応援にも励まされて200キロ以上の道のりを前に進み続けることができました。

※※※

宮古島は、翼を広げた鳥を正面から見たシルエットのような形をしていて、南西の角に、足で小さな獲物をつかんだような来間(くりま)大橋と来間島が、翼の先に当たる北西角には池間大橋と池間島が、そして反対側の南島角には東平安名崎(ひがしへんなざき)があります。スイムは来間大橋の付け値に近い前浜ビーチが会場でしたので、第1ランもこの近くで行われました。そしてバイクは宮古島の約100キロの周回道路を左回りに約1周半。ランは内陸部分を西から東へと縦断して折り返すコースでした。

第1ランは1キロ当たり5分少し程度というランのスタートしては余裕のあるペースで走りました。
そのあとの道のりの長さを考えると、最初に飛ばす意味は全くありませんし、手を中心に使うスイムがランに置き換わったわけですから、バイクに移る前の脚の負担を小さく抑えるためにも、この程度のペースが順当だったと思われます。

バイクは池間島までの約30キロが強い北風の向かい風で、スタート直後から先行きが少し不安になりましたが、途中で通る宮古島の中心街、平良などで沿道に繰り出してくれていた地元の人らによる「ワイドー(頑張れ)!」の声援に励まされ、不思議とスムーズに脚が回る感じで、スピードを維持できました。
大漁旗が並んだ池間大橋では、風はさらに猛烈で、風速10メートルを超えていたように感じましたが、ここでも何とか平常心を保って前に進めました。

厳寒の時期から西風に逆らって3度も名古屋から大阪を目指した経験が生かされたのでしょう。三重・鈴鹿川沿いの鈴鹿おろしや岐阜・藤古川沿いの伊吹おろしの強烈さは、こんなものじゃなく、その中を倒れそうになりながら車体の重たい練習用のバイク「パナコ」に大きな荷物を付けてこいだことを思い出すと、さわやかな島の風は心地よいほどで、エメラルドグリーンが美しいサンゴ礁の海を長めながら走る余裕さえあったほどです。

1周約6キロの池間島の海岸に沿った道路を時計回りに走ると、池間大橋を渡り直して70キロ地点がある東平安名崎までは、ほぼ追い風基調になります。往路で猛烈な向かい風だった池間大橋は当然のことながら猛烈な追い風で、スピードは一気に時速40キロを上回ります。
「頑張れー!帰りは超楽ちんよー!」と、すぐ前を走っていた女性が、歯を食いしばって橋を渡ってくる後続の選手たちに向かって明るく叫んでいました。

池間島から東平安名崎までは北風を背にほぼ南東の方向に進むことから、池間大橋を渡ったあともスピードに乗ることができますが、それなりに起伏もあります。しかし、向かい風に比べるとずっと楽で、パンツのパッドが薄めだったことから、お尻が少し痛くなってきたものの、さほど疲労を感じることなく快適に飛ばすことができました。

東平安名崎から1周目後半の約30キロは、島の南岸近くを東から西へと進み、横風気味のため風の抵抗は少ないものの、それまでに比べて勾配のあるアップダウンが続き、登りで急減速する人も少なくありません。
しかし私は、ヒルクライムの練習もそれなりにした効果があったのか、新調したばかりの決戦用ホイールが登りでも力を発揮したためか、比較的スピードを維持することができて、登りのたびに何台かをかわすことができました。そしてスタート地点近くまで戻り、来間島に架かる橋を往復したあとに通過する100キロ地点までの平均時速は28キロほどと、まあまあのスピードを維持できていました。

ところが2周目に入って、再び厳しい向かい風を受けるようになると、1周目に比べて5キロほども大減速。
100キロを超えて「なんとかなりそうだ」という安心感が気の緩みに結び付いたのか、登りで調子を出して頑張りすぎたためか、とにかく今度は次々に抜かれる展開となってしまいました。

それでもエイドステーションでは、子どもなどが手渡してくれる交換用のドリンクボトルやバナナを毎回、減速しながら受け取って、「どうもありがとう!」と大声でお礼を言う元気は残っていました。
しかしまた、逆流性食道炎の典型的な症状である胸焼けやむかつきが出てきて、前掲姿勢を強くするほど、それがひどくなるように感じたものですから、トライアスロン用のDH(ダウンヒル)バーやドロップハンドルの下部(下ハン)を握るのがつらくなり、さらにスピードを維持するのが難しくなってきました。

トイレ休憩やバイクゴール手前でチェーンが続けざまに外れたハプニングもあって、後半55キロの平均時速はやはり約5キロ減の23キロほど。ペース配分と100キロ以降のスタミナ維持に課題を残しました。
とはいうものの、前半の「貯金」が少しは残っていたようで、180人近くが棄権することになったバイクパートを、なんとか乗りきることができました。

そんなふうに、なんとかバイクパートを及第点が付けられるパフォーマンスで乗りきることができた理由は、なんといっても繰り返したロングライドなど集中的な練習にあったのだと思います。
猛烈な向かい風で少しずつでも進み、ハンドルをとられない乗り方、長く続く登り坂で力を持続したり、急な登りでも決して立ち止まらない乗り方、長距離を走っても肩こりがひどくならないポジションやリラックスの方法-など、試行錯誤しながら会得したテクニックが生かされていると実感できる場面も度々ありました。

しんどい練習は必ずしも思ったようにパフォーマンスの向上に結び付くわけではなくても、しんどい練習を乗りきったという記憶は、本番で同じようなしんどさに直面しても動じることのない心の落ち着きや、自信につながるのだということを、あらためて感じています。

※※※

またまた長いブランクがあいてしまいましたが、ランパートの報告を続けることにします。

長い長いバイクを乗りきった私は、ほっとして気が抜けたことや体調が思わしくなかったことから、バイクを置いたりシューズを履き替えたりするトランジションで、15分近くもたっぷりと休憩してしまいました。
私はこれまで、100キロなどのウルトラマラソンでも着替えをするレストステーションでは、ついつい大休止をとってしまっていて、これが自分のスタイルだと思ってもいますが、今回は、このあと制限時間に間に合うかどうかが微妙になってきたころになって、休憩を長くとりすぎたことを少し悔やみました。

ともあれ、ゆっくり休んだ効果があったからか、ランの走り初めは足が軽く感じました。
まさに、バイクのあと「脚が残っている」という状態に感じ、これぞ直前になって入手したフルカーボンの「決戦用ホイール」の効果なのだとも思いました。

ランの初めのうちは、宮古島の中心街である平良の街を抜けて走りますので、沿道で応援してくれる住民の方なども多く、それもまた脚をいっそう軽くしてくれるようでした。
「これで完走は間違いない」と思って、調子に乗って写真も撮り始め、撮影の際に追い越されても、すぐに追いついてしまう苦しそうな周囲のランナーには申し訳ないような気にさえなりました。10キロあたりまでは、写真を撮りながらだったにもかかわらず1キロ当たり6分ほどのペースを維持していましたので、このままならランは4時間半以内というまずまずのタイムで走り切れそうに思えました。

しかし、そんなうわついた気持ちでいられたのも10キロあたりまででした。
いつしか田園地帯に入って、アップダウンも多くなってくるなか突然、脚が動かなくなってきたのです。
ランの前半は100キロマラソンの前半ぐらいの感じで走れたのが、いきなり70キロから80キロあたりの苦しさが襲ってきたような感じです。スタートから経過した時間や運動量を考えると当然のことなのですが、なんだか夢見ていたのが急に現実世界に引き戻されたようでした。

1キロ当たりの所要時間も一気に7分から8分ぐらいまで落ちていき、余裕で走っているつもりだったのが、急に完走がおぼつかないことを実感し始めました。
私はこれまで、ハーフや100キロも含めると百数十回におよぶ大会に出場していますが、そのほぼすべては前半に「突っ込んで」、じりじりとペースを落とす走り方で、後半になってスピードアップできたのは、サロマ湖の100キロで10時間を切ったときを含めて2、3回だけ。一度落ちたペースは、このまま落ち続けるということを覚悟するのも当然のことなのです。

1キロを進むのに要する時間が長くなる以上に1キロの「体感距離」はどんどん長くなって、ゴールはどんどんはるか彼方に遠ざかっていく感じがしてきました。それに加えて、ようやく折り返し点が近くなった20キロあたりからは、逆流性食道炎に伴って不調だった胃がキリキリと痛み出し、ほとんど投げ出したくなりそうな気持ちさえしていました。

しかしながら、折り返し点付近の給水所で、病院で処方されていた胃酸を抑える薬を飲んだところ、胃の痛みだけは感じなくなり、それに伴って走るスピードもわずかながら持ち直すことができるようになりました。
それでも、完走できるかどうかが微妙である状況から急に脱することができるわけではなく、とにかく脚を止めずに前に進むことだけを考えて走り続けました。

太陽は既に沈んで、周囲はどんどん暗くなっていきます。痛みがとれたとはいえ、胃の調子が良くなったわけではありませんので、給水所では既に何も食べることができず、暖かいお茶だけをいただきました。
暗くなっても沿道の応援は断続的に続きますが、写真を撮りながら「ありがとうございます!」と応えられた前半と違って、今や横を向く元気すらなく、わずかに首をタテに振ることで感謝の気持ちを一方的に表そうとできるだけです。

「こんな苦しい遊びは、なかなかないよなあ」
そう思いながら、ただただ脚を前に出すだけです。急な上りでは走っても歩いてもスピードがほぼ同じになるとともに、走ろうとしても走れなくなってきて歩きを交ぜましたが、時間のことを考えると上り以外も歩き続けるわけにはいきません。

「ここでもう少し頑張れば完走できるだろうが、逆に少しでも力を抜けばアウトだ」
「こんなにしんどい目をしても、その少しの差で、そのあとに待っている情景は180度変わってしまう」
そんなふうにも思うと、もはや頑張り続けるほかに手はないことが分かってきます。
そう割り切ってしまうと、ほとんど無心になって脚を動かし続けることができました。

また、苦しければ苦しいほど、そうした体験はなかなかできないわけで、生きているからこその貴重な体験だというふうにも思えてきます。それを自分の意思だけで続けているのだと思うと、まさに生きていることを強烈に実感できるような気にすらなってきます。

ともあれ、あきらめずに走り続ければ、当然のことながらゴールは近づくわけで、あと数キロを残すだけになると再び平良の街に入ってきました。
ゴールが間近になった中心街の大通りでは、トライアスロン観戦をサカナに食事をしながら一杯やろうという地元の人たちが歩道にテーブルを出すなどして応援してくれています。
時間は既に夜の10時。なま暖かい南の島の風を肌に受けて、その風にも増して、とてつもなく暖かい島の人たちによる尽きることのない歓迎の心に包まれて、身体の底から熱いものが込み上げてくるのを感じます。

「もう少し走っていたいかもしれない」
そんなふうにさえ思い、この風景を1枚でも撮っておきたいとも思いましたが、それはできませんでした。
少しでも身体と心の緊張を解けば、また走り出せるかどうか分からないほど、精一杯だったからです。

そんなふうにして、私はなんとかかんとか、長い長い1日の旅を終えて、ゴールにたどり着きました。
苦しむ距離や時間が長いほどゴールの感激は大きいもので、久々に大きな充実感を得ることができました。
結果的には、ギリギリのゴールだったわけですが、そのギリギリのパフォーマンスを発揮するために費やした練習の時間や努力もそれなりに長く大きなもので、それがあってこその充実感でもありました。

ただ、スイムなしの不完全なレースだったことは確かで、「ロングのトライアスロンを完走した」と胸を張れるようになったわけではありません。
いつか次の機会があれば、きっとこの宮古島でトライアスロンを完走してみたいものですし、そうした次なる目標を残せたことは、それはそれで幸運だったと思うことにします。
別の宇宙に浮かんでいるような、なまぬるく優しい空気で全身を包んでくれるようなこの南の島に、またやってくる理由も残すことができたわけですから。

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