“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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3歳を祝いディナー

本日は息子の3歳の誕生日で、近所に住む両親を自宅に招いて、ささやかな誕生日ディナーのテーブルを囲みました。

食後のケーキは、我が家のハレの日に定番となっている近くの老舗ドイツ菓子店のホールケーキ。
3本のロウソクに火をともして皆で「ハッピーバースデー」を合唱すると、待ち構えていた息子は、ひと息で火を吹き消し、目にもとまらぬ速さでチョコレートのプレートをつまんで、かじりました。

息子のこの1年は、前の誕生日の3日後に妹が生まれて、環境が大きく変わりました。それまでは1人の天下で、わがままも言い放題だったのに突然、強力なライバルが出現。親が子ども1人ずつにかける手間はどうしても2分の1になり、息子は妹に嫉妬することも少なくありません。
それでも、素直に育ってくれている息子には、親の私の方が感謝するほどです。

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掲載した写真はケーキのほか、メインの皿ではないオクラと枝豆。
どちらも息子の大好物で、枝豆の方は、彼が自ら台所用のハサミを使って、枝に付いていたサヤのすべてを切り離してくれました。

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スイム2Kラン10K

泊まり勤務明けの本日は、会社と自宅の中間あたりにある大阪府門真市の府立門真スポーツセンターのプールまで電車で出かけて2キロ余りを泳ぎ、そこから自宅までの10キロを走りました。

1990年の大阪花博を機に再整備された鶴見緑地公園の近くにある門真スポーツセンターは、1997年の「なみはや国体」に向けて建設されたドーム型の施設で、これまで「なみはやドーム」の愛称で親しまれてきましたが、命名権を薬品会社に譲渡した結果「東和薬品RACTABドーム」という、一般の利用者にとって意味不明な覚えにくい名前に変わっていました。

しかし、おそらく私と同様に従来通りの「なみはやドーム」の名前で呼び続ける人が、ほとんどのはずです。
スポーツ施設の命名権譲渡は一般的になってきていますが、施設と関連のある会社の名前ならいざしらず、そうではなく、しかも一般の人になじみのない会社や、その会社に関連した専門用語を施設の名前に冠するのは、どんなものかと思います。

ちなみに。「RACTAB」は東和薬品が開発した水なしでも服用できる口腔内崩壊錠をつくる技術の名称だそうですが、そんなものを看板に掲げても、会社にとって目に見える利益が生まれるとは思えませんし、意味不明なアルファベット用語を使わされる一般の人は、はっきり言って、いい迷惑なわけで、かえって会社の印象を悪くするだけだと思うのですが。

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それはともかく、日本の南岸沖をUターンして迷走した台風10号が東北の太平洋岸へと向かった本日の大阪は、台風一過の好天で、スポーツセンターのドームは青空に映えていました。

競技会にも使われる50メートルプールが特徴のドームのプールですが、普段は50メートルを2つに分けて25メートルプールとして一般開放されることが多く、本日も、もしかして50メートルの長水路でのびのびと泳げるかもしれないという期待は外れました。
それでも往復のスイミング用のレーンが幾つも設定されているプールは、近所のスポーツクラブとは比べものにならないぐらい広々としていて、しかも平日の午前とあってか利用者も少なく、1レーンを1人で占領して泳ぐことができました。
おかげで、いつもは1キロか1キロ半ぐらいを泳ぐと疲れて飽きてしまう私ですが、本日は気持ち良く2キロ以上を泳ぐことができました。

プールからの約10キロのうち、前半は大阪と京都を結ぶ第二京阪国道に沿って整備された歩道・自転車道をたどり、台風による雨が上がった後とあって比較的涼しい風が吹くなかを気持ち良く走ることができました。

門真は知る人ぞ知るレンコンの産地であるものの、これまでレンコン畑を目にすることがほとんどありませんでしたが、プールを出てしばらくの間の道沿いには、次々とレンコン畑が現れました。
レンコン畑とはいうものの、ようするにハス池なのですが、以前に同じ歩道を走ったときに全く気づかなかったのは不思議です。
と、以前の記事を調べてみたところ、前にここを走ったのは3年前の12月で、今は青々と茂っているハスの葉はそのとき、収穫後に枯れるなどして見えなかったものと思われます。

懐かしの敷津浦2

先日の泊り勤務明けにロードバイクで遠回りの帰宅ライドをした際、私が少年時代を過ごした大阪市住之江区・敷津浦地区に立ち寄った際の写真を、もう6枚掲載します。

そのころに住んでいた木造の市営住宅が鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられるなど、当時の街並みがすっかり変わってしまった中、昔のままの風情を残していた地元の神社などの写真です。

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かつて私が住んでいた家の周辺には2つの神社がありました。近い方が高砂神社、遠い方が高崎神社で、当時はこの2つが相当離れたところにあるように感じましたが、今になって地図を見てみると、その距離は直線でほんの300メートルほどです。

これらの神社は初詣や遊びで出かけたほか、中学時代までやっていたボーイスカウトの集会が開かれることもありました。
イギリス生まれのボーイスカウト活動は、野外活動を通じて生活力や道徳心を養い、集団生活における規律も学ぶというものですが、少なくとも当時の日本では、ちょっと軍隊風のアレンジがなされていたようで、神社との結びつきがあったように思います。私が所属していた地元の「団」では、年が明けた夜中の0時すぎから毎年、近くの神社を幾つも早足で回る初詣をしていました。

とはいえ、小中学生にとっては、さほど宗教・思想的な影響を与えるほどではなかったようで、私はテント生活など野外での生活技術を身に着けて、その後にのめり込んでいった山歩きに生かしていった一方、ボーイスカウト活動の方は、引っ越しに伴って子どものころ以来の地元との結びつきを失ってしまったことなどから続けることができなくなりました。

そんなボーイスカウトも一緒にやっていて、高崎神社の近くに住んでいた当時の友人の家の前を通った際に表札を見てみると、その友人の名前が書かれていました。
小学校時代に何度か遊びに行ったこともあるその家は、ピンクのサルスベリの花越しに撮った写真に写っていて、写真を撮る際、突然訪ねてみようかという思いが頭をよぎりましたが、やめておきました。

私がこの地域を離れてから5年、10年ならいざしらず、既に40年以上も過ぎているわけで、当時の友人に接触してみたところで、今の自分の生活に何かプラスになることがあるかどうかといえば、残念ながら何にもなさそうに思えたうえ、長距離ライドの途中でこれ以上、道草をくっているわけにはいかなかったからです。
考えてみると、この地域を離れた後の学生時代だって、この場所がさほど遠くにあったわけではなく、仕事を始めて以降、長らく大阪を離れていた時代も、正月などに毎年のように帰省していましたが、この場所を再訪する機会もなければ、再訪してみようという気も起りませんでした。

3年前に大阪に戻ってきた後も、中学・高校時代の友人らとは旧交を温める機会が増えたものの、既に自分の中で切り捨てられたようになっている小学校時代の友人と接触することなど考えもしてきませんでした。
ようするに、町の姿が変貌してしまったことによってフタをされたようになって、少年時代を過ごしたこの地域での記憶は、過去の出来事として完結してしまっていて、今さらそのフタに穴をあける余地などないように思えるわけです。

そんなふうにフタを閉じられたまま、しまいこまれていく時代や場所、それに人間関係は、流れ続けて戻ることができない人生の中では数えきれないほどあるわけで、何かの拍子にそこに戻る機会がある場合もあるものの、そのほとんどは新しい現実の世界からはどんどん遠ざかっていきます。
この懐かしい敷津浦での記憶も、今後はさらに深い過去の沼の底に向かって沈んでいくばかりなのだろうと思います。

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深い沼といえば、子どものころ、ザリガニやタニシを捕りに出かけた黒くて深い感じの池が、この地域にありました。
吉田池と呼ばれていたその池は農業用のため池でしたが、とっくの昔に埋め立てられたようで、池のあった場所に行ってみると、大きな公園になっていて、スポーツに利用されているもようのグラウンドでは、盆踊りの提灯が飾り付けられていました。

そう、大阪の最果ての地だったこの敷津浦地区は当時、畑や空き地がたくさん残っていて、吉田池ともども、子どもの遊び場になっていました。そういえば、畑のわきには「肥えだめ」もたくさんあって、遊びまわる際には要注意でした。

かつての自宅と吉田池の間には商業高校があって、小学校と同じく、当時のまま残っていました。
自宅の前の路地を真っ直ぐに行くと、この高校の敷地にぶち当たり、そこにあった壁をよじ登って高校に忍び込むのも子どもたちの遊びの1つで、兄の友人たちと遊んでいた私が、自分だけ、なかなかその壁を乗り越えられなかった記憶があります。
そんなことを思い出させるブロック壁は、もちろん何度も積みなおされたとは思いますが、当時のままの場所に立っていました。

当時の自宅だった木造平屋の市営住宅があったところにそびえる集合住宅は、見上げてみると10階以上の高層住宅です。
建物と建物の間のスペースがあるとはいえ、何棟もあるこの集合住宅に住んでいる人の数は、考えてみると、当時の木造住宅に住んでいた人の数の10倍以上にもなるのでしょう。

最近になって父に聞いてみたところ、私の記憶にはない話ですが、大雨の際に当時の家の前にあったドブ川があふれて家が床下まで浸水し、2カ月ほど仮設住宅に移って生活したことがあるそうです。
家そのものが今の仮設住宅よりお粗末だったことを思うと、そこから別の仮設に移ったという話には、ちょっと笑ってしまいました。

また前回の記事で書いたとおり、家の斜め向かいにあったお米屋さんは、既に店を閉めて空家になっていましたが、父はお米屋さんのご主人とずっと年賀状のやり取りをしていて、2年ほど前になってパッタリと先方からの返信が途絶えたのだそうです。
小学校時代の記憶にフタをしたまま半世紀近くを過ごしてきた私とは対照的に、年賀状だけとはいえ、この敷津浦地区とのつながりを長年保ってきていた父を、ちょっと見上げてしまいました。

お米屋さんの隣の人の話だと、「ご主人」がお母さまの世話をされるため引っ越したということでしたので、もしかすると父が年賀状を出していたご主人は、しばらく前までの「ご主人」のお父さまで、お亡くなりになったということなのかもしれませんが、これもまた確かめるすべがほとんどない話です。

懐かしの敷津浦1

先日の泊まり勤務明けにロードバイクに乗り、職場から大和川沿いや生駒山地の十三峠を通って70キロを走った際、私が少年時代を過ごした大阪市住之江区・敷津浦(しきつうら)地区に立ち寄って撮った写真を、2度に分けて掲載します。

私が1960年に生まれてから中学1年のときまでを過ごしたのは、当時の住吉区北島町(現在は住之江区北島)にあった木造の市営住宅で、私はそこから、万葉集にも歌われている地名を校名にした敷津浦小学校に通いました。
ただ、中学・高校は天王寺区にある国立大学の附属学校に通い、中学の途中で大阪府寝屋川市に引っ越し。大学時代には、その隣町で、今の自宅のある枚方市へと再び引っ越ししたことから、懐かしの地である敷津浦とのつながりは最初の引っ越し以来なくなり、小学校時代の友人との連絡も途絶えたままです。

その代わり、中学・高校の6年間を一緒に過ごした友人らとの付き合いは深く長く続いているわけですが、少年時代を過ごした、ふるさとに戻る場所がないというのは寂しいもので、「田舎」や「故郷」のある人たちをうらやましく思うこともあります。
しかも、小学校時代に既に古びていた市営住宅は、その後、鉄筋コンクリートの集合住宅に生まれ変わって、当時の風景を思い浮かべるのも困難なほどで、私が乗ってきたロードバイクが、タイムマシーンのように感じました。

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掲載した写真の中で、ロードバイクの愛車、パナコを止めた電柱から道路を挟んで向こう側に見える集合住宅の角の部分に、私が住んでいた2軒1棟の木造平屋の市営住宅はありました。立派な植え込みが見える道路わきには、カラタチの木が植わっていました。
写真で右奧に向かっている道路は、初めのうちはドブ川で、その後に埋め立てられて未舗装の路地となりましたが、川沿いにあった柳の並木は残っていて、私を含め近所の子どもたちが木登りに興じていました。

市営住宅は古いばかりか2部屋と台所、それに納屋という狭さで、兄と私が小学校に通うようになってから子ども部屋が建て増しされました。賃貸の公営住宅で建て増しをするなど今ならあり得ませんが、当時はそんなことおかまいなしの、ちょっとした無法地帯だったようで、父は家の前に花壇のほか金魚やフナを飼う池を掘ったり、私たちが夜店で買ったヒヨコをニワトリになるまで育てるための小屋を建てたりしていました。
戦後間もなく建てられたと思われた家では、ネズミやゴキブリが出没するばかりか、縁の下にはアオダイショウがとぐろを巻き、夜になると玄関の開き戸の上では、ヤモリが出迎えてくれました。

大阪市役所に勤務していた父は一帯の市営住宅の管理人をしていて毎月、家賃の徴収用紙を各戸に配っていました。兄や私も小学校高学年になると、その仕事を手伝って、住人の皆さんの名前を覚えていました。
ちなみに市営住宅の家賃は、何十年も昔とはいえ破格の安さの500円~1000円でしたが、我が家は管理人の特典からか、なんと100円でした。

もちろん、そんなあばら家ですから、トイレも初めのうちは汲み取り式で、風呂場などはありません。
というわけで私たちは家から200メートルほどのところにあった風呂屋に通っていたのですが、その風呂屋があったと覚えている場所には、それらしい大きな旧家が残っていたものの、既に営業はされていない様子でした。

その風呂屋は、まさに大阪の下町という風情で、男湯と女湯を隔てるタイル張りの壁を越えて、その両方に入ったご夫婦がシャンプーを投げ合っていたり、愛きょうたっぷりに演説をぶつ共産党の名物おじさんがいたりしました。
今とは違って立派な刺青を入れた人も少なくなく、それを見た子どものころの私が大きな声で「ヘンな人がいる」と言って、父がヒヤヒヤすることもありました。
風呂屋の行き帰りには、現在のように街灯が整備されていなかったことから満天の星を眺めることができて、空を見上げながら星や星座の名前を言い当てるのが楽しみの1つでした。

住んでいた市営住宅の斜め向かいはお米屋さんで、家に電話がなかったころに電話を借りるなどして、お世話になっていました。
そのお米屋さんは、私たちがいるころに3階建ての店舗兼住宅を新築されて、その家は、かいわいでは一番立派な家でしたが、今や壁が汚れてみすぼらしくなり、既に空家になっていました。
15年ほど前に両親と車で、このかいわいを通りがかった際には、かつてのご主人か、あとを継いだ息子さんがいらしたように覚えていますが、隣の事業所の人に聞いたところ、何年も前に「ご主人」がお母さまのめんどうをみるため、川向いの堺市に引っ越されたということでした。

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かつての家から200メートルほどにある私の母校、敷津浦小学校は当時のままの場所にあって、壁は塗り替えられている様子でしたが、よくよく見ると校舎そのものは昔のままのようでした。
校門の入口の壁に掲げられた校章は懐かしいもので、遠くから見えた中庭の銅像にも見覚えがありました。
しかし、校門の扉は固くロックされています。私の中学・高校と同じ系列の大阪教育大学附属小学校池田校舎で10年ほど前に起きた児童殺傷事件などを機に学校のセキュリティーが厳格になったためなのでしょうが、地元の人ですらフラリと立ち寄ることができない学校というのも、ちょっと寂しいものです。

そういえば、小学校の3年か4年のころに理科の実習でニワトリの受精卵を孵卵器を使ってかえそうとしたことがあり、その設定温度が夜の間にも保たれているかどうかが気になった私は、友人とともに壁を越えて校舎に入り、教室にしのび込んで調べに行った覚えがあります。

まあ、私が50歳になってから今までの約6年間と比べると、小学校時代の6年間というのは、1日をとってみても1年間をとってみても、とてつもなく長く、体も心も成長して多くのことを学んだものです。
低学年のころの記憶は霞がかかったようにおぼろげですが、それでも6年間の記憶をたどってみると、いろんなことが思い出されて、尽きないようにも思えますので、それは控えておきます。

ただ、学年ごとに学級委員や生徒会の会長など役員もやらせてもらった小学校時代は、生活こそ時代相応につつましかったものの自分の人生がまぶしく輝いていた懐かしい時代の1つで、しばしタイムスリップしてみたいような気にもなります。
そう、小学校の校舎に前に来てみると、ふと当時の校歌が頭の中を流れました。
「海かすみ明け行く町々」で始まり「敷津の浦の我が学校の名も高く」で終わる校歌の歌詞を、不思議なことに私はいまだにほとんど覚えているようで、人間の記憶をつかさどる脳の仕組みの精巧さと複雑さには、コンピューターやAIなど、結局のところ永遠に及びもつかないように思えます。

古い木造の家屋が多かった当時は、冬になると毎週のようにどこかで火事が起きていて、消防車のサイレンが鳴ると自転車で飛び出して、その音を追っかけては火事場見物をしたものです。
お米屋さんの数軒隣の長屋の一角が焼けたこともあって、一緒に見物に行った兄の友人は、燃えながら落ちてきた木材が当たってけがをして、新聞に名前が出ました。

そんなことがなくても半世紀近くの時が流れているわけですから、町の外観はあまりにも変わっていますが、不思議なことに当時と同じ名前の看板を掲げていると思われる店舗も数軒ありました。
小学校の前にあった「高砂(タカサゴ)」という散髪屋さんもしかり。掲載した写真からは漏れていますが、その並びにあった医院も当時のままの名前で、ずっと立派な病院になっていました。

童仙房ブルーベリー

本日は京都府南部の高原地帯にある童仙房(どうせんぼう)地区で、ブルーベリー狩りを楽しみました。

童仙房はもともと明治時代の開拓村で、入植の順に「一番」「二番」…と振られた集落の地名が残り、その地名の謎を解こうと思った中学時代の私は、夏休みの自由研究として歴史や風土を調べるため、この秘境を何度も訪ねました。
当時、話を聞かせてもらった家が今やブルーベリー農園を営む民宿に生まれ変わっていて、ここでのブルーベリー狩りは、昨年のちょうど今ごろに来て以来、1年ぶりとなりました。

去年は息子を連れて来ましたが、今年は間もなく1歳になる娘が加わり、私は彼女をチャイルドキャリアに背負ってブルーベリーを収穫。ときおり摘んだばかりのブルーベリーを肩越しに差し出すと、小さな手がそれをつまみ上げ、笑い声が聞こえました。

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