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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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懐かしの敷津浦2

先日の泊り勤務明けにロードバイクで遠回りの帰宅ライドをした際、私が少年時代を過ごした大阪市住之江区・敷津浦地区に立ち寄った際の写真を、もう6枚掲載します。

そのころに住んでいた木造の市営住宅が鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられるなど、当時の街並みがすっかり変わってしまった中、昔のままの風情を残していた地元の神社などの写真です。

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かつて私が住んでいた家の周辺には2つの神社がありました。近い方が高砂神社、遠い方が高崎神社で、当時はこの2つが相当離れたところにあるように感じましたが、今になって地図を見てみると、その距離は直線でほんの300メートルほどです。

これらの神社は初詣や遊びで出かけたほか、中学時代までやっていたボーイスカウトの集会が開かれることもありました。
イギリス生まれのボーイスカウト活動は、野外活動を通じて生活力や道徳心を養い、集団生活における規律も学ぶというものですが、少なくとも当時の日本では、ちょっと軍隊風のアレンジがなされていたようで、神社との結びつきがあったように思います。私が所属していた地元の「団」では、年が明けた夜中の0時すぎから毎年、近くの神社を幾つも早足で回る初詣をしていました。

とはいえ、小中学生にとっては、さほど宗教・思想的な影響を与えるほどではなかったようで、私はテント生活など野外での生活技術を身に着けて、その後にのめり込んでいった山歩きに生かしていった一方、ボーイスカウト活動の方は、引っ越しに伴って子どものころ以来の地元との結びつきを失ってしまったことなどから続けることができなくなりました。

そんなボーイスカウトも一緒にやっていて、高崎神社の近くに住んでいた当時の友人の家の前を通った際に表札を見てみると、その友人の名前が書かれていました。
小学校時代に何度か遊びに行ったこともあるその家は、ピンクのサルスベリの花越しに撮った写真に写っていて、写真を撮る際、突然訪ねてみようかという思いが頭をよぎりましたが、やめておきました。

私がこの地域を離れてから5年、10年ならいざしらず、既に40年以上も過ぎているわけで、当時の友人に接触してみたところで、今の自分の生活に何かプラスになることがあるかどうかといえば、残念ながら何にもなさそうに思えたうえ、長距離ライドの途中でこれ以上、道草をくっているわけにはいかなかったからです。
考えてみると、この地域を離れた後の学生時代だって、この場所がさほど遠くにあったわけではなく、仕事を始めて以降、長らく大阪を離れていた時代も、正月などに毎年のように帰省していましたが、この場所を再訪する機会もなければ、再訪してみようという気も起りませんでした。

3年前に大阪に戻ってきた後も、中学・高校時代の友人らとは旧交を温める機会が増えたものの、既に自分の中で切り捨てられたようになっている小学校時代の友人と接触することなど考えもしてきませんでした。
ようするに、町の姿が変貌してしまったことによってフタをされたようになって、少年時代を過ごしたこの地域での記憶は、過去の出来事として完結してしまっていて、今さらそのフタに穴をあける余地などないように思えるわけです。

そんなふうにフタを閉じられたまま、しまいこまれていく時代や場所、それに人間関係は、流れ続けて戻ることができない人生の中では数えきれないほどあるわけで、何かの拍子にそこに戻る機会がある場合もあるものの、そのほとんどは新しい現実の世界からはどんどん遠ざかっていきます。
この懐かしい敷津浦での記憶も、今後はさらに深い過去の沼の底に向かって沈んでいくばかりなのだろうと思います。

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深い沼といえば、子どものころ、ザリガニやタニシを捕りに出かけた黒くて深い感じの池が、この地域にありました。
吉田池と呼ばれていたその池は農業用のため池でしたが、とっくの昔に埋め立てられたようで、池のあった場所に行ってみると、大きな公園になっていて、スポーツに利用されているもようのグラウンドでは、盆踊りの提灯が飾り付けられていました。

そう、大阪の最果ての地だったこの敷津浦地区は当時、畑や空き地がたくさん残っていて、吉田池ともども、子どもの遊び場になっていました。そういえば、畑のわきには「肥えだめ」もたくさんあって、遊びまわる際には要注意でした。

かつての自宅と吉田池の間には商業高校があって、小学校と同じく、当時のまま残っていました。
自宅の前の路地を真っ直ぐに行くと、この高校の敷地にぶち当たり、そこにあった壁をよじ登って高校に忍び込むのも子どもたちの遊びの1つで、兄の友人たちと遊んでいた私が、自分だけ、なかなかその壁を乗り越えられなかった記憶があります。
そんなことを思い出させるブロック壁は、もちろん何度も積みなおされたとは思いますが、当時のままの場所に立っていました。

当時の自宅だった木造平屋の市営住宅があったところにそびえる集合住宅は、見上げてみると10階以上の高層住宅です。
建物と建物の間のスペースがあるとはいえ、何棟もあるこの集合住宅に住んでいる人の数は、考えてみると、当時の木造住宅に住んでいた人の数の10倍以上にもなるのでしょう。

最近になって父に聞いてみたところ、私の記憶にはない話ですが、大雨の際に当時の家の前にあったドブ川があふれて家が床下まで浸水し、2カ月ほど仮設住宅に移って生活したことがあるそうです。
家そのものが今の仮設住宅よりお粗末だったことを思うと、そこから別の仮設に移ったという話には、ちょっと笑ってしまいました。

また前回の記事で書いたとおり、家の斜め向かいにあったお米屋さんは、既に店を閉めて空家になっていましたが、父はお米屋さんのご主人とずっと年賀状のやり取りをしていて、2年ほど前になってパッタリと先方からの返信が途絶えたのだそうです。
小学校時代の記憶にフタをしたまま半世紀近くを過ごしてきた私とは対照的に、年賀状だけとはいえ、この敷津浦地区とのつながりを長年保ってきていた父を、ちょっと見上げてしまいました。

お米屋さんの隣の人の話だと、「ご主人」がお母さまの世話をされるため引っ越したということでしたので、もしかすると父が年賀状を出していたご主人は、しばらく前までの「ご主人」のお父さまで、お亡くなりになったということなのかもしれませんが、これもまた確かめるすべがほとんどない話です。

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