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大阪城、波乱万丈

泊り勤務明けの本日は、職場を出た後に京阪電鉄の2駅分をウオーキングし、その途中では大阪城に立ち寄りました。

左ヒザの半月板断裂と診断されて以降、約2カ月にわたって走ったり歩いたりがまともにできない状態が続いていましたが、保存療法や筋トレが功を奏してか、ここしばらくはほぼ痛みや違和感がなくなり、自宅から2番目に近い香里園駅までの1.4キロほどなら以前どおりにジョギングもできるようになっています。
数週間前に大阪城を通ってウオーキングした際はまだ、そろりそろりとしか脚を運ぶことができず、途中で強い痛みに襲われることもありましたが、本日は、それなりのスピードで快適に歩き続け、最後には電車の時間に間に合うようにと速めのジョギングをすることもできました。

本日のウオーキングでは、大阪城の石垣ウオッチをちょっとしたテーマにして、波乱万丈だった大阪城の歴史に思いをはせながら歩くことにしました。
といいますのも、ちょうど泊り勤務の際、以前に地中から見つかった豊臣時代の石垣の常設展示に向けて、大阪市が事業費への寄付を募集しているものの、目標額の半分にも達していない-というニュースに接したからです。

その際に、うろ覚えだった大阪城の歴史を整理してみたところ、多くの人が信じているように今の大阪城は豊臣秀吉が築いたものではなく、城の土台や城壁の石垣などはすべて、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされた後、徳川家の手で上書きをするように再び築城されたものだということを再認識しました。

ただ、話をややこしくしているのは、昭和に入ってから行われた復興で再建された今の天守閣は、豊富秀吉が建造した当時のものをモデルにしているということです。つまり、徳川家が築いた城の上に、豊臣家が建てた天守閣のレプリカを乗せて、しかもそれが鉄筋コンクリート造りだということで、今ならありえないような文化財復興がなされたままになっているというのが、現在の大阪城の姿だということなのです。

まあ、それはさておき、本日のウオーキングではまず、地中での常設展示が計画されている石垣とは別に、既に発掘調査が行われた後、地上で再び積まれている大阪城外側の石垣を目指しました。

BL161208大阪城石垣1IMG_0589  BL161208大阪城石垣2IMG_0596  BL161208大阪城石垣3IMG_0605

豊臣時代の大坂城(江戸時代まで大阪は「大坂」でした)の石垣を見ることができるのは、大阪城を取り囲む2重の掘のうち、外側の掘の北西部分に沿った道路を渡って反対側にある小学校などの敷地沿いです。
30年余り前、この小学校の建て替えに伴って発掘調査が行われた結果、地下3~5メートルほどのところに東西約150メートルの石垣が見つかり、これまでに、自然の石をそのままの形で積み上げた「野面(のづら)積み」の工法などから、豊臣時代のものであることが分かっています。

このとき発掘された石垣の一部は小学校と、隣接する大阪府の文化施設の敷地沿いに復元されています。
紹介した写真3枚のうち2枚が、その様子ですが、3枚目は、そこから道路を渡り、掘のそばを通って城内に入る際に撮った掘の内側の城壁の様子。大阪城の大きな魅力は、この現代の高層ビル群にも引けを取らないほどの、壮大な城壁の姿にありますが、実は、こちらの方は徳川家が築いたものだというわけです。

BL161208大阪城石垣4IMG_0624  BL161208大阪城石垣5IMG_0633  BL161208大阪城石垣6IMG_0618 

徳川家によって再築城された大坂城は、元々あった豊臣の大坂城を埋めて、その上に新しく造成され、掘や石垣の形もすっかり新しくされ、石垣の高さも掘の深さも豊臣時代の2倍になったということです。

そして、石垣を造成するために使われた大量の巨石は、西国と北陸の大名各家の寄進によって集められ、そのために多くの石には各大名の家紋や産出された場所を表す印が刻印されたということで、そのうち後世に、傷みが激しくなって補修のため取り外された石が城内の一角に展示されています。
また、城壁のコーナーの部分など要所に使われた石は全国の城の中でも比類のないほど大きくて立派のものが多く、それらを積み上げる技術も、各大名が競ったことなどから、最も高度なものになっているということです。

そうして今に残る徳川の大阪城は3期にわたる大工事で完成し、そのシンボルとなった天守閣は1626年に完成しましたが、わずか39年後の1665年に落雷のため焼失し、その後は長らく再建されませんでした。
というのも、大工事で完成したものの、徳川時代の大阪城には将軍や大名が住むことはなかったからで、1783年には3度目の落雷を受けて、城の玄関部分にあった櫓(やぐら)も焼失して、主な建物はほとんど失われたということです。

その後、幕末の1843年になって、ようやく大坂や堺から御用金を集めて大修復が行われ、天守閣以外の建物が再建されました。そして明治元年の1868年になって、政府軍との戦いで逃げ延びた徳川慶喜が籠城し、夏の陣以来初めて、城としての役目を果たしたものの、再び落城して、せっかく再建されていた建物は、またもやほとんどが焼失したそうです。

廃墟同然になっていた大坂城は、明治以降、終戦までは陸軍の用地になりましたが、1928年(昭和3年)に、当時の関一(せき・はじめ)市長が大阪復興のシンボルとして天守閣を再建する計画をぶち上げ、それに賛同する市民からの寄付は巨額となり、わずか3年で現在の天守閣ができあがりました。

しかし、徳川時代に再築城(造成)された城の土台の上に建てられた天守閣は、以前の資料が乏しかったことや、豊臣秀吉が天下統一したころの大坂の繁栄を再びという願いも込められて、夏の陣を描いた絵を元に伏見桃山時代の別の城も参考にして建設されることになりました。
しかも、外観は豊臣秀吉の大坂城をモデルにつくられた大阪城の天守閣ではありますが、その中身は鉄筋コンクリートで、当時としては例のない高さ55メートルの大規模建築になったということです。

今の大阪城は、関西でもどんどん増える北東・東南アジアを中心とした訪日外国人の観光客が多く、平日に訪れると、訪問客のほとんどが外国人となっていますが、そんな人たちはおそらく、こうした波乱万丈の大阪城の歴史を知るよしもないでしょう。
ただ、徳川時代に再築城された壮大な石垣などの上に、天下統一を果たしたヒーロー、豊臣秀吉の時代の栄華をしのんで、そのころと同様の天守閣が再建されているというのは、ちくはぐではあっても、大阪復権を夢見る今の大阪の人たちにも、十分支持されることのように思います。

ですから、今の石垣に比べるとみすぼらしい豊臣時代の石垣が地下から見つかって、それを展示しようという地味な事業への寄付が、徳川時代の大規模な寄進や、天守閣復興時の寄付のように集まらないのは仕方がないことでしょう。
そうはいっても、こうした波乱万丈の大阪城の歴史をひもとく端緒として、それが市民や訪問客の目に触れるようにするという計画自体は十分に必要性がありますし、なんとか実現してほしいものだと思います。

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