
昨日、チーム55の仲間らと一緒に大和三山を巡ったマラニックの写真を引き続き掲載します。
今回は12枚で、畝傍山の下山路から神武天皇陵を経て三山の2つ目となる香久山に登り、その麓にある奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室までに撮ったものです。

畝傍山の下山路は登山道のように良く踏まれておらず、山歩きに慣れていない若ちゃんら女性陣は苦労されていました。
下山途中の木々の間からは最後に登った耳成山の姿が見えました。

この日は冷え込んで、辛うじて雪にならない冷たい雨が、濡れない程度にわずかに降っていましたが、道すがらではロウバイやスイセンの花が見られ、春が少しずつ近づいていることを感じさせてくれました。

畝傍山の北麓、橿原神宮の境内の外れにある神武天皇陵は、立派なお堀に囲まれた方形の丘で、うっそうとした木々に覆われ、その入り口には大きな鳥居が立って荘厳な雰囲気を醸しています。
とはいっても、ここは江戸時代の末期に初代天皇の陵をつくろうとして元々あった小さな丘を大規模に整備した場所。
本当に天皇が葬られているかもしれない古墳とは別物の人口物ということで、古代史にひかれていた小学校時代の私も、ここを訪れようという気などありませんでしたが、今となっては、おそらく実在はしなかったとされる神武天皇の陵を幕府や天皇家の権威づけのためにつくったという歴史そのものが興味深く感じます。
天皇陵といえば、最近では仁徳天皇陵とされて宮内庁が管理している堺市の大山古墳の堤の一角が地元の市も協力して発掘調査されたことが話題となりました。
実際に天皇陵かどうか分からない古墳をお役所が管理して研究者を遠ざけていたというのは、文化財の保護・管理という観点からはいびつな形で、大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界遺産登録を目指すには、それが障壁になるとも考えられます。
ただ、そうして厳格な管理をしてきたからこそ結果的に古墳が発掘による破壊から守られてきたとも言えますので、古くて新しいこの問題の答えは簡単には出ないのでしょう。
実は中学時代の私は、そうした埋蔵文化財の開発・発掘と保護の問題を自分のことのように悩んで夏休みの研究にしたほどでしたが、そのころ発掘されて見事な色彩が話題を集めた高松塚の壁画は、不十分な保護技術の犠牲になって黒いカビに浸食され永遠に元の輝きを失ってしまいました。
大幅に脱線しましたが上の写真のうち残る2枚は香久山の麓にある「天岩戸」と、山頂で撮った記念写真。
木々の間から今度は、最初に上った畝傍山の姿が見えています。

最後の3枚は奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室で撮った展示物。
古代の貴族の食事を再現した様子と、高松塚の壁画に描かれた飛鳥美人を模した人形、それに「香久山」と書かれた土器です。
資料室にはほかにも多くの土器や埴輪など発掘された遺物が展示されていて、小学生のころの私なら半日でも見ていたいと思ったはずですが、私たちは三山最後の耳成山へと向かいました。
今回は12枚で、畝傍山の下山路から神武天皇陵を経て三山の2つ目となる香久山に登り、その麓にある奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室までに撮ったものです。



畝傍山の下山路は登山道のように良く踏まれておらず、山歩きに慣れていない若ちゃんら女性陣は苦労されていました。
下山途中の木々の間からは最後に登った耳成山の姿が見えました。



この日は冷え込んで、辛うじて雪にならない冷たい雨が、濡れない程度にわずかに降っていましたが、道すがらではロウバイやスイセンの花が見られ、春が少しずつ近づいていることを感じさせてくれました。



畝傍山の北麓、橿原神宮の境内の外れにある神武天皇陵は、立派なお堀に囲まれた方形の丘で、うっそうとした木々に覆われ、その入り口には大きな鳥居が立って荘厳な雰囲気を醸しています。
とはいっても、ここは江戸時代の末期に初代天皇の陵をつくろうとして元々あった小さな丘を大規模に整備した場所。
本当に天皇が葬られているかもしれない古墳とは別物の人口物ということで、古代史にひかれていた小学校時代の私も、ここを訪れようという気などありませんでしたが、今となっては、おそらく実在はしなかったとされる神武天皇の陵を幕府や天皇家の権威づけのためにつくったという歴史そのものが興味深く感じます。
天皇陵といえば、最近では仁徳天皇陵とされて宮内庁が管理している堺市の大山古墳の堤の一角が地元の市も協力して発掘調査されたことが話題となりました。
実際に天皇陵かどうか分からない古墳をお役所が管理して研究者を遠ざけていたというのは、文化財の保護・管理という観点からはいびつな形で、大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界遺産登録を目指すには、それが障壁になるとも考えられます。
ただ、そうして厳格な管理をしてきたからこそ結果的に古墳が発掘による破壊から守られてきたとも言えますので、古くて新しいこの問題の答えは簡単には出ないのでしょう。
実は中学時代の私は、そうした埋蔵文化財の開発・発掘と保護の問題を自分のことのように悩んで夏休みの研究にしたほどでしたが、そのころ発掘されて見事な色彩が話題を集めた高松塚の壁画は、不十分な保護技術の犠牲になって黒いカビに浸食され永遠に元の輝きを失ってしまいました。
大幅に脱線しましたが上の写真のうち残る2枚は香久山の麓にある「天岩戸」と、山頂で撮った記念写真。
木々の間から今度は、最初に上った畝傍山の姿が見えています。



最後の3枚は奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室で撮った展示物。
古代の貴族の食事を再現した様子と、高松塚の壁画に描かれた飛鳥美人を模した人形、それに「香久山」と書かれた土器です。
資料室にはほかにも多くの土器や埴輪など発掘された遺物が展示されていて、小学生のころの私なら半日でも見ていたいと思ったはずですが、私たちは三山最後の耳成山へと向かいました。
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