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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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青空に舞う都鳥&凧

泊まり勤務明けの本日は当初、ロードバイクに乗り少し遠回りして帰宅しようかとも思いましたが、真夜中に対応しなければならない仕事が入って、ほとんど仮眠できないほぼ「完徹」となってしまいましたので、おとなしく自宅へ直行しました。夕方に子どもたちの世話を担当していたため、それに備えて昼寝がどうしても必要だと思われたからです。

大阪市中心部を流れる大川沿いから淀川沿いに出る手前の毛馬閘門付近は、この時期に冬の渡り鳥ユリカモメ(都鳥)の姿が見られる場所で、本日は青空に舞う姿を見ることができました。
また、淀川の河川敷に出ると、子どもたちがやはり白い凧を空に向かって揚げているのを見かけました。

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駅で幼稚園児作品展

泊まり勤務の本日は、昨夜の帰り道に切れたロードバイクのチェーンを修理してもらうため行きつけの自転車屋さんに出かけ、その後、京阪・枚方市駅の駅ビル内にある展示スペースで開かれている市内の幼稚園児による図画や工作の作品展示会に出かけました。

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年少組の娘がお友達と一緒に作った作品がどれなのかは本人の記憶があいまいで分からずじまいでしたが、年長の息子がサンタクロースやトナカイを描いた作品は名前入りで展示されていました。昨年は息子の作品が同じ組の子どもたちの中から数人だけが選ばれる展示会でも飾られていて、今回もその豪快なタッチには親バカだとは思うものの感心しました。

そういえば、カンボジア旅行を前にクリスマスプレゼントとして息子にあげた地球儀は、すっかり彼のお気に入り。
「サンタさん、なんでこれくれたのかなあ」と前に言ったときには「カンボジアに行くからちゃうか」と答えておきましたが、数日前には「サンタさんのソリ、フィンランドからどこを通って来るんやろ」と息子が地球儀を眺めながらつぶやいていました。
やはり急激にいろいろと物事が分かるようになってきたとはいえ、まだまだ彼の住む世界の半分はファンタジーに中にあるようで、それがいとおしくもあり、うらやましくもあります。

3日連続ジテツーも

お正月と開けた後にたっぷり休んでカンボジア旅行までさせてもらったとあって、その埋め合わせのため月の後半は少しきつめの勤務が続きます。

本日は昨日に続いて昼すぎから夜までの勤務となり、ロードバイクでの自転車通勤を再開後に3日続けてしようとしました。かつてのように通勤でトレーニングすることにしておけば、きつめの勤務は練習量の増加につながるというわけですが、そうは問屋が卸しませんでした。といいますのは、帰りの淀川河川敷で、昨日のパンクに続いて今度はなんとチェーンが切れるというアクシデントに見舞われ、にっちもさっちもいかなくなって車で迎えに来てもらうという失態を演じたからです。

もちろん動揺し、落胆したアクシデントの後に写真を撮る余裕があるはずもなく、帰路の出発前に二重の手袋やシューズカバーなど防寒具を撮った写真を掲載します。
ともあれ冬のジテツーでは防寒対策も大事ですが、それよりもバイクの整備やチェーン切れにも対応できるトラブル対策を充実させることも忘れてはならないと実感しています。

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キリングフィールド

本日は昼すぎから夜までの勤務でしたが昨日に続いてロードバイクで通勤しました。
ところが帰路、真っ暗の淀川河川敷でタイヤが突然パンク。幸い近くの堤防から外へと通じる歩道橋わきに明るい街灯があったため、スペアのチューブを入れて走れるようになり、事なきを得ました。とはいえ、これが出勤時だとすると遅刻の可能性もあったわけで、やはり夜の走行は何が起こるか分からないと思う一方、行きにはいつもより10分は余裕を持って自宅を出るべきだということを再認識することになりました。

掲載する写真は引き続きカンボジア旅行の落穂拾い。本日分としては、2日目のプノンペン市内巡りで最初に訪れた南部チューンアエクの通称「キリングフィールド」。ポル・ポト政権時代の大量虐殺の犠牲者の頭蓋骨を収めた塔など慰霊施設です。

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1975年から4年間のポル・ポト時代に大量虐殺された人々は、数百万人の人口の3分の1とも言われる200万人近くと推定され、こうしたキリングフィールドは各地に残されています。
内戦終結から間もなかった私の特派員時代には、そのほか多くの人がピクニックに訪れていたやはりプノンペン南方のトンレ・バティという池のほとりに放置された頭蓋骨が山積みになっている場所もあって、そこを通る際に靴の下でパリパリと音がしたのを覚えています。

こうした凄惨な負の歴史を物語る場所に、まだ物心のつかない子どもたちを連れて行くことは少しはばかられる思いもしましたが、それでもやはりこんな場所もあったということを記憶の隅に刻んでもらうことは大事なように思いました。
極端な原始的な共産制を敷いて、知識人をはじめ多くの人々を死に追いやった政権の行状は、一部の指導者の狂気が原因のようにも言われますが、その背景にあったのは冷戦時代にアメリカの支援を受けた政権の腐敗であり、アメリカによる激しい空爆でした。

また少し歴史を遡れば、ゆがんだ正義を旗印に戦争に突き進み、民間人を含めて300万人もの犠牲者を出したうえ、さらに他の国の多くの人々の命を奪った帝国主義時代の日本も、今から思うとまさに狂気に包まれていたと言えますが、そんな時代をたたえるような動きが平気で息を吹き返しつつあるのもまた,、まぎれもない現実のことです。
大事なことは、そうした人間の負の歴史に目をそむけず、それを学び知ることができる場所や物に触れて感じることだと思うわけで、せっかくの海外旅行ではありましたが、このチューンアエクとその後訪れたトゥオルスレンの虐殺記念館は日程に組み込まざるを得ませんでした。

とはいえ、30度を超える猛暑の中での屋外施設の訪問は私にとってもそれなりにしんどく、チューンアエクの施設敷地内では、ヤシの実のジュースをいただきました。

サップ川渡るフェリー

本日はカンボジア旅行後にこわしたお腹の調子が少し良くなってきたため、久々にロードバイクに乗って自転車通勤をし、遅ればせながら今年のトレーニングをスタートしました。
掲載する写真は引き続き旅行の落穂拾い。本日分は2日目のプノンペン市内巡りでもキアさん宅から市の中心部に行くために利用したサップ川を渡るフェリーの様子です。

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かつてキュウリ畑が広がっていたキアさん宅のあるチュロイチョンヴァー地区は、今や高層建築のコンドミニアムが立ち、キアさん宅を含め豪邸のヴィラや川沿いのレストランが次々とできていて、プノンペンで最もホットな新開発地区。

琵琶湖の2倍の面積を誇るトンレサップ湖から流れてくるサップ川とメコン川が合流する手前の岬状のエリアで、サップ川に面した市中心街から渡るには日本の援助で造られた「日本橋」と、その隣りの「中国橋」が利用できますが、フェリーを使えば急劇に深刻化した交通渋滞を、ルートによって避けることができます。
地区から中心街までの所要時間はわずか5分ほど。フェリーは数隻がひっきりなしに往復していて、バイクに乗る学生たちも利用して市民の足となっているもようでした。

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フェリーで対岸に向かうと、ちょうど私が住んでいて当時は迎賓館としても使われたホテル・カンボジアーナが正面に見え、その右後ろには駆けっこ仲間の森口さんが支配人を務めるホテル・エミオン・プノンペンも見えました。
そして左奥には、何棟もの超高層ビルの建設が進む市内最大の新開発地区、ダイアモンドアイランドも眼前にありました。

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中心街川の船着き場近くは以前、川魚を塩漬けにして作る発酵食品プラホック用の小魚が水揚げされ、各地から集まった人たちがそれを買い込んで大きなカメに漬け込む作業をしていましたが、今やそうした光景は過去のものとなっていました。