
20年近く前、私が東京の地方テレビ局に出向していた際に一緒に仕事をしていたビデオジャーナリストの康乃さんが亡くなり、出身地の静岡・焼津で本日開かれたお別れの会に出席してきました。

小型のデジタルビデオカメラが放送に耐えるほどの性能を備えるようになったのを受け、自らカメラ片手に取材するビデオジャーナリストがニュースを伝えるというコンセプトにより1995年に開局したテレビ局で、康乃さんは開局当時からのメンバーでした。
私はその5年後、テレビ局を支援する勤務先の会社から初めて、デスクをしながらビデオ記者としても仕事をして「現場」をこなす要員として出向し、康乃さんら生え抜きのメンバーたちに交じって日々のニュース番組を作りました。
とはいえ、記者としての経験にはそれなりの自信があったものの、それはあくまでも活字の世界での話。
ニュースを伝えることは同じでも、映像による取材や表現、それを形にする文法のようなものはまるで違うわけで、それに慣れるまでには想像以上の努力を強いられ、康乃さんをはじめ仲間たちから多くを学ばせてもらいました。
ただ、そもそも写真が好きで、写真取材については専門のカメラマンと一緒でなくても仕事をこなす自信があった私は、ちょうどテレビ局の記者たちが使っているのと同じビデオカメラが自宅にもあったことから、頼まれもしないのに出向前の休みを使ってカンボジアに出かけ、特派員時代から大きく変わった国の様子を手当たり次第に映像で撮りまくり、いきなりその素材を持ち込みました。
そして、そのカンボジアのレポートや、東京で市民マラソンを開こうという活動、噴火により全島避難となった三宅島をめぐる問題など、数多くのニュース特集を作らせてもらい、自ら出演して解説を加えるといった経験もさせてもらいました。
その一方で、日常のニュースの項目を組み、取材の手配や原稿づくりをこなすデスクや、短いニュース番組ではオンエアを統括するディレクターまでやらせてもらい、新しく若いテレビ局の報道現場の一員として約2年にわたり仕事をさせてもらいました。
今から振り返ると、自分の仕事人生の中でも最もしんどかったものの、日々熱いチャレンジを繰り返した時代で、自分の会社にいるだけでは得られなかった貴重な経験を重ねさせてもらっただけでなく、一緒に仕事をした皆さんとは同志といいますか仲間のような間柄になることもできました。
そのころ報道現場のお姉さん格で多くを教えてくれ、ほぼ2人でデスク作業を回したこともある康乃さんは、私が出向期間を終えて自分の会社に戻って間もなく退社して、以前に大学で映像を学んだことのあるニューヨークに渡り、大手テレビ局の番組の現地取材員として仕事を続けてられました。
私がニューヨークシティマラソンを走って新聞の1ページ特集を書く仕事で現地に行った際には、合わせてまとめた「東京で市民マラソンを」という企画用の映像素材の一部を、なんと康乃さんに撮ってもらったこともありました。
とはいえ、その後の私は名古屋、大阪と転勤を重ね、康乃さんが一時帰国する際に開かれていた「同窓会」に出る機会もなく、テレビ局のかつての仲間たちとも次第に連絡が薄れていきました。
そんな折に届いたのが、2年前に帰国して闘病を続けていた康乃さんが亡くなったという知らせ。皆さんと疎遠になっていたことを悔いる気持ちとともに、皆さんが一緒になって開くというお別れの会にはなんとしても顔を出したいという思いが大きくなって、遠方からではあるものの会に出席させてもらったというわけです。
会の場で、康乃さんがその後も映像の仕事を勢力的に続けてられたことを知りました。私の方も自分の会社に戻って10年余りは映像や放送局関連の仕事を続けましたが、今は元の活字の仕事に戻っています。
それでも、皆さんに会うと、これまでもずっと一緒に仕事をしてきていたような不思議な感じがしました。そして帰りがけには、毎日根を詰めて仕事をして、オンエア後には夜中からでも飲みに行って熱く語りあったあの頃のように、精進落としとして食事をしながら、お酒もたくさんいただいてしまいました。
息をされている康乃さんに今一度会うことはかないませんでしたが、そんな懐かしい場を、康乃さんがつくってくれたのだと思うことにします。



小型のデジタルビデオカメラが放送に耐えるほどの性能を備えるようになったのを受け、自らカメラ片手に取材するビデオジャーナリストがニュースを伝えるというコンセプトにより1995年に開局したテレビ局で、康乃さんは開局当時からのメンバーでした。
私はその5年後、テレビ局を支援する勤務先の会社から初めて、デスクをしながらビデオ記者としても仕事をして「現場」をこなす要員として出向し、康乃さんら生え抜きのメンバーたちに交じって日々のニュース番組を作りました。
とはいえ、記者としての経験にはそれなりの自信があったものの、それはあくまでも活字の世界での話。
ニュースを伝えることは同じでも、映像による取材や表現、それを形にする文法のようなものはまるで違うわけで、それに慣れるまでには想像以上の努力を強いられ、康乃さんをはじめ仲間たちから多くを学ばせてもらいました。
ただ、そもそも写真が好きで、写真取材については専門のカメラマンと一緒でなくても仕事をこなす自信があった私は、ちょうどテレビ局の記者たちが使っているのと同じビデオカメラが自宅にもあったことから、頼まれもしないのに出向前の休みを使ってカンボジアに出かけ、特派員時代から大きく変わった国の様子を手当たり次第に映像で撮りまくり、いきなりその素材を持ち込みました。
そして、そのカンボジアのレポートや、東京で市民マラソンを開こうという活動、噴火により全島避難となった三宅島をめぐる問題など、数多くのニュース特集を作らせてもらい、自ら出演して解説を加えるといった経験もさせてもらいました。
その一方で、日常のニュースの項目を組み、取材の手配や原稿づくりをこなすデスクや、短いニュース番組ではオンエアを統括するディレクターまでやらせてもらい、新しく若いテレビ局の報道現場の一員として約2年にわたり仕事をさせてもらいました。
今から振り返ると、自分の仕事人生の中でも最もしんどかったものの、日々熱いチャレンジを繰り返した時代で、自分の会社にいるだけでは得られなかった貴重な経験を重ねさせてもらっただけでなく、一緒に仕事をした皆さんとは同志といいますか仲間のような間柄になることもできました。
そのころ報道現場のお姉さん格で多くを教えてくれ、ほぼ2人でデスク作業を回したこともある康乃さんは、私が出向期間を終えて自分の会社に戻って間もなく退社して、以前に大学で映像を学んだことのあるニューヨークに渡り、大手テレビ局の番組の現地取材員として仕事を続けてられました。
私がニューヨークシティマラソンを走って新聞の1ページ特集を書く仕事で現地に行った際には、合わせてまとめた「東京で市民マラソンを」という企画用の映像素材の一部を、なんと康乃さんに撮ってもらったこともありました。
とはいえ、その後の私は名古屋、大阪と転勤を重ね、康乃さんが一時帰国する際に開かれていた「同窓会」に出る機会もなく、テレビ局のかつての仲間たちとも次第に連絡が薄れていきました。
そんな折に届いたのが、2年前に帰国して闘病を続けていた康乃さんが亡くなったという知らせ。皆さんと疎遠になっていたことを悔いる気持ちとともに、皆さんが一緒になって開くというお別れの会にはなんとしても顔を出したいという思いが大きくなって、遠方からではあるものの会に出席させてもらったというわけです。
会の場で、康乃さんがその後も映像の仕事を勢力的に続けてられたことを知りました。私の方も自分の会社に戻って10年余りは映像や放送局関連の仕事を続けましたが、今は元の活字の仕事に戻っています。
それでも、皆さんに会うと、これまでもずっと一緒に仕事をしてきていたような不思議な感じがしました。そして帰りがけには、毎日根を詰めて仕事をして、オンエア後には夜中からでも飲みに行って熱く語りあったあの頃のように、精進落としとして食事をしながら、お酒もたくさんいただいてしまいました。
息をされている康乃さんに今一度会うことはかないませんでしたが、そんな懐かしい場を、康乃さんがつくってくれたのだと思うことにします。
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