“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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懐かしの敷津浦1

先日の泊まり勤務明けにロードバイクに乗り、職場から大和川沿いや生駒山地の十三峠を通って70キロを走った際、私が少年時代を過ごした大阪市住之江区・敷津浦(しきつうら)地区に立ち寄って撮った写真を、2度に分けて掲載します。

私が1960年に生まれてから中学1年のときまでを過ごしたのは、当時の住吉区北島町(現在は住之江区北島)にあった木造の市営住宅で、私はそこから、万葉集にも歌われている地名を校名にした敷津浦小学校に通いました。
ただ、中学・高校は天王寺区にある国立大学の附属学校に通い、中学の途中で大阪府寝屋川市に引っ越し。大学時代には、その隣町で、今の自宅のある枚方市へと再び引っ越ししたことから、懐かしの地である敷津浦とのつながりは最初の引っ越し以来なくなり、小学校時代の友人との連絡も途絶えたままです。

その代わり、中学・高校の6年間を一緒に過ごした友人らとの付き合いは深く長く続いているわけですが、少年時代を過ごした、ふるさとに戻る場所がないというのは寂しいもので、「田舎」や「故郷」のある人たちをうらやましく思うこともあります。
しかも、小学校時代に既に古びていた市営住宅は、その後、鉄筋コンクリートの集合住宅に生まれ変わって、当時の風景を思い浮かべるのも困難なほどで、私が乗ってきたロードバイクが、タイムマシーンのように感じました。

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掲載した写真の中で、ロードバイクの愛車、パナコを止めた電柱から道路を挟んで向こう側に見える集合住宅の角の部分に、私が住んでいた2軒1棟の木造平屋の市営住宅はありました。立派な植え込みが見える道路わきには、カラタチの木が植わっていました。
写真で右奧に向かっている道路は、初めのうちはドブ川で、その後に埋め立てられて未舗装の路地となりましたが、川沿いにあった柳の並木は残っていて、私を含め近所の子どもたちが木登りに興じていました。

市営住宅は古いばかりか2部屋と台所、それに納屋という狭さで、兄と私が小学校に通うようになってから子ども部屋が建て増しされました。賃貸の公営住宅で建て増しをするなど今ならあり得ませんが、当時はそんなことおかまいなしの、ちょっとした無法地帯だったようで、父は家の前に花壇のほか金魚やフナを飼う池を掘ったり、私たちが夜店で買ったヒヨコをニワトリになるまで育てるための小屋を建てたりしていました。
戦後間もなく建てられたと思われた家では、ネズミやゴキブリが出没するばかりか、縁の下にはアオダイショウがとぐろを巻き、夜になると玄関の開き戸の上では、ヤモリが出迎えてくれました。

大阪市役所に勤務していた父は一帯の市営住宅の管理人をしていて毎月、家賃の徴収用紙を各戸に配っていました。兄や私も小学校高学年になると、その仕事を手伝って、住人の皆さんの名前を覚えていました。
ちなみに市営住宅の家賃は、何十年も昔とはいえ破格の安さの500円~1000円でしたが、我が家は管理人の特典からか、なんと100円でした。

もちろん、そんなあばら家ですから、トイレも初めのうちは汲み取り式で、風呂場などはありません。
というわけで私たちは家から200メートルほどのところにあった風呂屋に通っていたのですが、その風呂屋があったと覚えている場所には、それらしい大きな旧家が残っていたものの、既に営業はされていない様子でした。

その風呂屋は、まさに大阪の下町という風情で、男湯と女湯を隔てるタイル張りの壁を越えて、その両方に入ったご夫婦がシャンプーを投げ合っていたり、愛きょうたっぷりに演説をぶつ共産党の名物おじさんがいたりしました。
今とは違って立派な刺青を入れた人も少なくなく、それを見た子どものころの私が大きな声で「ヘンな人がいる」と言って、父がヒヤヒヤすることもありました。
風呂屋の行き帰りには、現在のように街灯が整備されていなかったことから満天の星を眺めることができて、空を見上げながら星や星座の名前を言い当てるのが楽しみの1つでした。

住んでいた市営住宅の斜め向かいはお米屋さんで、家に電話がなかったころに電話を借りるなどして、お世話になっていました。
そのお米屋さんは、私たちがいるころに3階建ての店舗兼住宅を新築されて、その家は、かいわいでは一番立派な家でしたが、今や壁が汚れてみすぼらしくなり、既に空家になっていました。
15年ほど前に両親と車で、このかいわいを通りがかった際には、かつてのご主人か、あとを継いだ息子さんがいらしたように覚えていますが、隣の事業所の人に聞いたところ、何年も前に「ご主人」がお母さまのめんどうをみるため、川向いの堺市に引っ越されたということでした。

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かつての家から200メートルほどにある私の母校、敷津浦小学校は当時のままの場所にあって、壁は塗り替えられている様子でしたが、よくよく見ると校舎そのものは昔のままのようでした。
校門の入口の壁に掲げられた校章は懐かしいもので、遠くから見えた中庭の銅像にも見覚えがありました。
しかし、校門の扉は固くロックされています。私の中学・高校と同じ系列の大阪教育大学附属小学校池田校舎で10年ほど前に起きた児童殺傷事件などを機に学校のセキュリティーが厳格になったためなのでしょうが、地元の人ですらフラリと立ち寄ることができない学校というのも、ちょっと寂しいものです。

そういえば、小学校の3年か4年のころに理科の実習でニワトリの受精卵を孵卵器を使ってかえそうとしたことがあり、その設定温度が夜の間にも保たれているかどうかが気になった私は、友人とともに壁を越えて校舎に入り、教室にしのび込んで調べに行った覚えがあります。

まあ、私が50歳になってから今までの約6年間と比べると、小学校時代の6年間というのは、1日をとってみても1年間をとってみても、とてつもなく長く、体も心も成長して多くのことを学んだものです。
低学年のころの記憶は霞がかかったようにおぼろげですが、それでも6年間の記憶をたどってみると、いろんなことが思い出されて、尽きないようにも思えますので、それは控えておきます。

ただ、学年ごとに学級委員や生徒会の会長など役員もやらせてもらった小学校時代は、生活こそ時代相応につつましかったものの自分の人生がまぶしく輝いていた懐かしい時代の1つで、しばしタイムスリップしてみたいような気にもなります。
そう、小学校の校舎に前に来てみると、ふと当時の校歌が頭の中を流れました。
「海かすみ明け行く町々」で始まり「敷津の浦の我が学校の名も高く」で終わる校歌の歌詞を、不思議なことに私はいまだにほとんど覚えているようで、人間の記憶をつかさどる脳の仕組みの精巧さと複雑さには、コンピューターやAIなど、結局のところ永遠に及びもつかないように思えます。

古い木造の家屋が多かった当時は、冬になると毎週のようにどこかで火事が起きていて、消防車のサイレンが鳴ると自転車で飛び出して、その音を追っかけては火事場見物をしたものです。
お米屋さんの数軒隣の長屋の一角が焼けたこともあって、一緒に見物に行った兄の友人は、燃えながら落ちてきた木材が当たってけがをして、新聞に名前が出ました。

そんなことがなくても半世紀近くの時が流れているわけですから、町の外観はあまりにも変わっていますが、不思議なことに当時と同じ名前の看板を掲げていると思われる店舗も数軒ありました。
小学校の前にあった「高砂(タカサゴ)」という散髪屋さんもしかり。掲載した写真からは漏れていますが、その並びにあった医院も当時のままの名前で、ずっと立派な病院になっていました。
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コメント


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校歌

初めまして、とても懐かしく拝読いたしました。私も敷津浦小学校に在籍していたものです。といっても5年生になるときに転校しました。校歌が懐かしく2番の歌詞を途中から忘れたので検索していたところ、こちらに遭遇いたしました。「昼なれば文読む声々、大空にこだまするまで、真理を究め、技能を磨き、・・」その後が何だったかなと思ったのです。コメントさせていただきたいと思ったのは、校歌の歌いだしが記憶と違っていてびっくりしたからです。私は1951年生まれで、転校もしたので卒業式に歌ったわけでもなく、記憶違いかもしれませんが、私は「海かすみ明けゆく町々」と覚えていたのです。あさぼらけ? 確かですか? ずっと見過ごそうと思っていたのですが、やはり気になってコメントしてしまいました。

よよこ | URL | 2016-10-20(Thu)19:16 [編集]


Re: 校歌

> 初めまして、とても懐かしく拝読いたしました。私も敷津浦小学校に在籍していたものです。といっても5年生になるときに転校しました。校歌が懐かしく2番の歌詞を途中から忘れたので検索していたところ、こちらに遭遇いたしました。「昼なれば文読む声々、大空にこだまするまで、真理を究め、技能を磨き、・・」その後が何だったかなと思ったのです。コメントさせていただきたいと思ったのは、校歌の歌いだしが記憶と違っていてびっくりしたからです。私は1951年生まれで、転校もしたので卒業式に歌ったわけでもなく、記憶違いかもしれませんが、私は「海かすみ明けゆく町々」と覚えていたのです。あさぼらけ? 確かですか? ずっと見過ごそうと思っていたのですが、やはり気になってコメントしてしまいました。
ご連絡ありがとうございました。歌い出しはおっしゃる通り「海かすみ」だったはずです。勘違いしたまま記事を掲載したようで、今さらではありますが、さっそく手直しをさせていただきます。こちらもネット上で確認できなかったことから、安易に勘違いしたままの言葉を書いてしまいました。失礼いたしました。

マラソンカメラマン | URL | 2016-10-21(Fri)01:33 [編集]


お返事いただきありがとうございました。
やっぱり「海かすみ」で良かったのですね。
何度かピアノで伴奏をさせていただいたことがあり、覚えたのだと思います。
すっきりしました!


よよこ | URL | 2016-10-23(Sun)11:09 [編集]