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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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今も悲し虐殺博物館

本日は休みでしたが、ほぼ完全な徹夜となった一昨日から昨日にかけての泊まり勤務のダメージが残っていたうえ、頼まれごとのシゴトもあってほぼ家にこまったまま。日常的なトレーニングを再開したつもりでしたがジョギングすらせず、完全休養ということになりました。

ということで再びカンボジア旅行の落穂拾いネタです。前回は1975年から79年にかけてのポル・ポト政権時代に大量虐殺された犠牲者を慰霊するプノンペン郊外チューンアエクの施設を紹介しましたが、本日は市内巡りをした2日目、それに続いて出かけた市南部トゥオルスレンの収容所跡をそのまま残した「虐殺博物館」の写真を掲載します。

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このトゥオルスレンの収容所は元高等学校だった場所。独りよがりで過激な原始的共産主義の革命思想にとりつかれたポル・ポト政権の指導者らは、都市生活を否定して首都プノンペン市内の住民すべてを農村部に移住させ、国民すべてに農作業の強制労働をさせて国全体を出口のない収容所に変えてしまいました。
それと同時に市内住民のうち知識人や学問のある人を、男女を問わず反革命分子の「政治犯」として、この収容所に送り込み、次々に尋問と拷問を繰り返してほぼ全員を処刑。約2万人にも上った収容者のうち生還できたのはわずか7人とされ、中庭には最後に残されていた犠牲者を葬った14人の墓が並んでいます。

また尋問室に使われた教室ごとのベッドの枠の上には、足かせや拷問道具を入れていたという金属製の箱も置かれていて、当時の様子をうかがうことができます。

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また広いいくつかの教室には、ポル・ポトをはじめとする指導者らの写真とともに、拷問されて亡くなった何百人もの犠牲者の顔写真がずらりと並べて掲示。訳の分からないまま将来への望みを絶たれた人たちの表情は既に怒りも悲しみも消えて、ただただうつろで、とても直視できるものではありません。
ただ以前壁に掲示してあった、頭蓋骨を並べて描いたカンボジアの地図は、あまりにも見るに堪えないとして15年ほど前に撤去されたということです。

敷地を囲む塀の上に設置された鉄の柵や有刺鉄線もそのまま残されて、その内部が恐ろしい別世界だったことを物語っています。

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ここで虐殺された人たちの遺体も埋められたというチューンアエクの「キリングフィールド」と同じく、虐殺博物館も案内板などが整備され、パンフレットや各国語で説明を聞けるヘッドホン型のオーディオ機器が配布され、入場料も徴収して見学施設としての体裁が整っています。

私が特派員として赴任した新政府樹立後2~4年のころは、入場料などなかった代わり、入り口付近には地雷で脚をなくした元兵士らが何人もたむろし、地面にはいつくばったり松葉杖をついたりしながら物乞いをしていました。
またそこを突破して中に入っても、それなりに詳しい人と一緒でなければ最初は残されている展示物の意味がすぐには分かりませんでした。かといって、当時の市内では自分の助手たちを含めほぼ全ての人が家族や親せき、知人の誰かを亡くしていて、外国に逃れたり難民キャンプにいたりしなければ実際に幼少期などにポル・ポト政権時代を経験していたことから、案内を頼むのもはばかられたものです。

また地方ではまだポル・ポト派残党の支配地域も残って、実際には内戦が完全に終結したわけではなく、その戦況や一斉投降といった動向も取材の対象でした。ナンバー2だったイエン・サリがタイ国境近くで大量の兵士を伴って投稿した際には現地に赴き、「投降式」を取材しました。

その後、1998年に死亡したポル・ポトを除く元最高指導者らを裁く特別法廷が、国連や日本をはじめとする各国の支援を受けて2006年から始まり、「S21」という暗号で呼ばれたトゥオルスレン収容所の所長だったカン・ケク・イウも12年に終身刑が確定。
今も生存していて裁判が続いている元指導者は、私の元助手だったキアさんが本人とともに共著を出したキエウ・サムパン(キュー・サムファン)だけとなっています。

私自身は特別法廷を取材したこともなく、その動向も詳しくは知りませんが、高齢だった元指導者らを裁いても最高刑が終身刑までの法廷にどれだけの意味があるのかとの疑問の声もあったようです。
ただ重い負の遺産を抱えたカンボジアが自らの力で発展していくためには、国際支援を受けての形式的な法廷であれ、やはり自らの手で裁きを行い歴史のけじめをつけるという過程が必要だったのだと思います。だからこそ法廷には毎回、一般市民の傍聴者も多かったということ、元指導者が自ら過去を語ったキアさんとの共著が空前のベストセラーになったこともうなずけます。

それに比べると、いわゆる極東軍事裁判の結果について、アメリカ占領下の裁判だったからと言いながら、憲法の制定過程や内容とともに異をとなえようとするような我が国の風潮には、やはり暗い気持ちにならざるを得ません。
その意味や中身は異なっていても、同じく大きな負の遺産を抱えた国として、この国は結局自分の手で清算することができいまま発展してしまい、その歪みが今もどこかに残ったままになっているような気がするというわけです。
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