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“走るマラソンカメラマン”辰巳郁雄写真展 走った!撮った!世界のマラソン

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世界遺産古墳巡り4

日中に子ども2人との留守番役を引き受け、久々に子守りをすることになった本日は、2人を連れてバッティングセンターに行った後、ショッピングモールのフードコートでランチをしましたが、夕方には昨日買い込んでいたタマネギや菜っ葉を家庭菜園に植えるなどして師走を前に秋の畑仕事をほぼ終えることができました。

しかしながら、またまた一心不乱に畑の作業を進めていて、写真を撮るどころではありません。
ということで引き続き前の日曜に世界遺産の古市古墳群を走りながら巡ったマラニックの写真掲載を進めます。4回目の本日も9枚。応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳を過ぎ、数珠つなぎに連なる古墳群の中心部分の後半で、墓山古墳や仁賢天皇陵古墳、そして日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓とされる白鳥陵古墳に至るまでです。

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古市古墳群のほぼ中央に位置する墓山古墳は墳丘の長さが225メートルのかなり大きな古墳。周囲には濠と堤が巡っています。

その北側に近接し、大きな古墳に付属する陪塚(ばいちょう/ばいづか)とみられる野中古墳は一辺37メートルの小さな方墳で、住宅地に囲まれてひっそりとたたずんでいます。
「うらやぶ」と呼ばれ、古墳であるかどうか分からなかったというこの野中古墳は1964年に大阪大学が調査。鉄製の武器や馬具、農具などが大量に出土して一躍脚光を集めたということです。

そして次に立ち寄ったのは墳丘の長さが122メートルの仁賢天皇陵古墳。
この古墳にも濠が巡っていますが、さらにその外側には大きな溜め池が二つ連なっていて、当時「古市大溝」と呼ばれた巨大な運河の一部だったとも言われているそうです。

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仁賢天皇陵古墳のお濠ばたには家族連れなどが憩う公園が整備されていて、その近くでは埴輪を焼いた窯の跡も見つかっています。
続いて眺望の良い歩道橋を渡り、ランチ休憩をとった近鉄・古市駅前へと向かう際、古市古墳群中心部の最後に訪れたのが白鳥陵古墳です。

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日本武尊の墓とされる白鳥陵古墳は墳丘の長さが200メートルの前方後円墳で、前方部の幅が後円部の直径を上回り、墳丘の高さも前方部の方が3メートルほど高くなっているのが特徴です。地図や空撮写真で見ると、スカートのように見える前方部が風を受けたように両側に広がっているのです。小学校から中学校にかけて古墳や考古学が好きだった私は、この古墳のシャープで精悍な姿にあこがれて、写真に見とれたりノートにそのフォルムを落書きしたりしていたほどです。

調べてみると、日本武尊は伊勢で亡くなった後に白鳥に姿を変え、大和を経てこの古市の地に飛来。天に向かって羽を曳(ひ)くように飛び去ったという白鳥伝説が日本書紀などに記され、それが地元・羽曳野(はびきの)市の由来になっているとのこと。
そういえば、白鳥陵古墳の姿はまさに羽を広げて飛ぶ白鳥のようにも見えてきます。

白鳥陵古墳の濠のわきを通る道には、ここが古道の竹之内街道の一部であることを示すプレートが路面にはめてあります。
竹之内街道は、大陸との交流の入口だった難波(大阪)から百舌鳥古墳群と古市古墳群を結び、「近つ飛鳥」と呼ばれ聖徳太子の墓などがある河南町を経て二上山麓の竹之内峠を越え、古代の都だった奈良盆地南部の飛鳥へと続きます。元は「官道」としてつくられたという街道ですが、今や古市駅前の白鳥交差点から先のほとんどは国道になって昔の面影は残っていません。
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